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『下山の思想』 [☆☆]

・朝日にかしわ手を打つのが神道で、西方の空に沈む夕日に合掌するのが仏教である。

・「ローマは一日にしては成らず」という。だとすれば、同時に、「ローマは一日にしては滅びず」ともいえる。歴史は一夜にして激変しない。長い時間をかけて変化がきざし、それが進行する。

・あらゆる意見は仮説である。情報には必ずバイアスがかかっている。はっきりした真実は、明日のことはわからない、この一点だけだ。

・最近の世の中は、オオカミ社会である。昔話とちがうのは、実際にオオカミが出現するという点だ。くり返しくるぞくるぞと叫んでいると、オオカミは呼びだされるのである。デフレだ、デフレだ、とマスコミが騒げば騒ぐほど、デフレは進行する。

・明治以来、世間はマスコミのリードするとおりに動いてきた。大衆とはそういうものなのかもしれない。

・いま、格差社会というが、ある意味では平等社会の面があり、同時に格差が拡大しつつあるという、奇妙な現実が目の前にある。

・富める者、権力をもつ者、学のある者、若さにあふれる者、良家の出の者、などなど、アドバンテージを有する者が、謙虚にふるまうのは、それほど難しいことではない。逆に、貧する者がおだやかにそれに耐えることのほうが、はるかに難しい。

・数字は嘘をつかない。しかし、数字を操作するのは人間である。

・被災地と離れた土地の人が買い溜めをするのは、平時の油断のせいである。

・思い出は、積極的に語るほうがいい。鋼鉄も、人間の体も酸化していく。サビるのだ。記憶もそうだ。思いだし、正確なディテールを語ったり書いたりすることで、わずかに残る部分がある。

・体型は変わっても、歩き方はあまり変わらない。膝を上にあげて、下に踏みおろす。これは水田耕作民の脚の使い方である。泥田の中では、膝を伸ばしては歩けない。

・騎馬民族は足を突っぱる。農耕民は膝を曲げて移動する。

・京都のことを日本の伝統文化を伝える歴史の街、と考える人も多いが、京都は日本のなかの異国である。渡来人によって造られた異国文化のパビリオンだ。

・青年時代の鴨長明はロッカーであった。彼はエレキのかわりに当時ピパ、またはビワと呼ばれた新奇な外国渡来の楽器に熱中し、将来はミュージシャンをめざした当時の新人類である。



下山の思想 (幻冬舎新書)

下山の思想 (幻冬舎新書)

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/12/09
  • メディア: 新書



タグ:五木寛之
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