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『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』 [☆☆]

・現在の常識は、どうも予測できない悪いことばかり心配しているようだ。「落石注意」の看板を重く見て、もう出歩かない、という感じだろうか。

・答えない相手に挨拶しつづけることは、そう簡単にはできないはずである。大抵は腹を立て、自分も挨拶を止めてしまうか、教育的な言辞を吐いてしまうだろう。しかし管長さんはまるで昨日のことを覚えていないとでもいうように、相変わらぬ挨拶をしつづけた。それが三年続くというのは尋常ではない。

・よく学校などで「挨拶しましょう」と教える場面を目にするが、そんなことを指導するくらいなら、黙って挨拶しつづけたらどうかと思う。深く深く感化するためには、簡単に指導に走ってはいけないのだと思う。

・修行道場には洗濯機がなかった。だから洗濯は、四と九のつく日にタライと洗濯板を使ってしたのである。

・四と九のつく日は月に六日ある。その日は個人的な用事ができる。それが「弁事」と呼ばれる四九日である。個人的な用事といっても爪切りや食器洗い、布団干し、繕いものなど、普通の人は時を嫌わずすることも含まれる。

・不便さは不公平でないかぎり苦痛ではない。

・道場では「好きなことをする」のではなく、「することを好きになる」能力を養うのである。

・胃も世間でいう「腹八分目」がベストだとは思わない。だって八分目を続けていたらまもなくそれが十分目になり、食べられる量はどんどん減っていくではないか。胃の能力を開発するためにも、たまにはドカっと食べて膨らませないといけないから、雲水はときおり闇雲にウドンを食べるのである。

・我々は子供の頃から合理的な考え方に慣らされているから、どうしても叩かれれば然るべき理由を見つけて納得しようとする。いわば叩かれた原因を探すのだ。

・叩かれる理由は叩かれる側が見いだす。その尊厳な懺悔によって、我々の脳には大きな変化が生まれるのだと思う。

・投げつけられたお金を拾っても托鉢にはならない。我々は乞食ではない。

・老師と親しいお客さんは、老師専用の玄関から入る。そこには下駄と靴が一足ずつ置いてあり、下駄はもちろん老師のものだが、靴は誰のものでもない。つまり初めて来た客に、「来客中なので」と断るための「見せ靴」なのである。

・いい人なんでおりゃせん。ただワシの前でいい人になるだけじゃ。それ以上のことは誰にも望めん。



ベラボーな生活―禅道場の「非常識」な日々

ベラボーな生活―禅道場の「非常識」な日々

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本



タグ:玄侑宗久
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