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『機械より人間らしくなれるか?』 [☆☆]

・コンピュータは計算が得意であるという事実によって、人間はある意味で活動する舞台を奪われるのだろうか、それとも人間的でない活動から解放され、より人間らしい生活を送れるようになるのだろうか。後者の方見方のほうが魅力的に思えるが、将来「解放」されずに残る「人間的な活動」が嫌になるほど少なくなるかもしれないと思えば、それほど魅力的には感じられなくなる。

・チューリングテストに機械が合格するのを防げないとすれば、それは「機械がそれだけ知的だからではなく、人間が、少なくともその多くがそれだけ無能だからということになるだろう」。

・こうした状況では、情報が増えてもそれほど役には立たないだろう。干し草を積んだ二つの山のあいだにいて、どちらも選べずに飢え死にするロバの寓話を思い起こさせるこのような状況では、必要なのは「正しさ」ではなく、自分の選択に「満足」することだ。

・僕は食事をしなければならないことを煩わしいと思いがちだった――泣いている赤ん坊におしゃぶりを与える親のように、僕はうるさく鳴るお腹を静かにさせるために食べ物を口に押し込んでいたのだ。

・野外で働く肉体労働者のあいだでは、太りすぎて青白いことが座ってばかりでご馳走を食べていることを示すステータスシンボルとなっている。IT労働者のあいだでは、人工的であろうが不健康であろうが、日焼けして痩せているのが贅沢とされている。どちらも理想的とは思えない。そもそも、わざわざ「運動する」必要があること自体がみっともない話だ。

・ノイマン型マシンは、人々が意識的思考としてイメージしやすいものだ。つまり割り算を筆算でするみたいに、アルゴリズムを一つずつ実効する。だが脳の働きはそれとは違う。心は状況に合わせてしか働かないものだ。

・チューリングは「数学に関しては」とても頭がよく、チューリングマシンとは数学者を類型化したものだと述べている。このマシン「がモデル化しているの」は、人間が問題を解く方法であって、自分の母親を認識する方法ではない。

・スティングの曲『オール・ディス・タイム』には「人は大勢でいるとイカれる/一人ずつでしかよくならない」という、いつ聴いても胸が張り裂けそうになる歌詞がある。

・現代の女性たちは、皆一様にマスコミによって理想的な体型のイメージを刷り込まれ、それぞれが他の人とは違う理由で苦しみながら、数年もかけてそれを克服しなければならない。病気は量産できる。だが治療はそうはいかない。

・相手を変えるために大事なのは「問題の根っこを理解して、その奥深くに隠された意味を知ること」だと考え、その中身を問題として扱わなければならないと本気で思っているなら、相手を変えるにはおそらく数年かかるだろう」と述べている。彼に言わせると、原因を「知る必要があるとは思わない」そうだ。原因を知ったところで意味はなく、気休めにしかならないと言う。

・人間は人間自身を「機械」に置き換えようとしているのでも、「コンピュータ」と置き換えようとしているのでもなく、「メソッド」と置き換えようとしているのだ。このメソッドを人間が実行するかコンピュータが実行するかは二の次であるように思える。

・どんなことにでも許可が必要になると、自分では何も考えない文化が作られる。

・「ブルーカラーとホワイトカラー」はロボットのような労働環境について不平を洩らしているが、彼らは「奪われた」仕事について不満を述べているのではなく、従事している仕事について不満を述べている。

・仕事が人々を消耗させる「ロボットのような」作業になるのは、たいていその仕事を自動化する技術が誕生するよりもはるか前である。したがって、悪いのは資本家であって、技術による圧力ではないはずだ。

・人間は機械に触れて、初めて人間のありがたみがわかるのかもしれない。人間味のなさは、人間が人間らしさを求める求めるきっかけになっているだけでなく、人間らしさとは何かを教えてもくれているのだ。

・すべての高校生はプログラミングを学ぶべきだと、僕は大真面目に思っている。そうすれば、次世代の若者たちは、規則に縛られた反復作業をしろと命じられたときに、当然のように憤慨するだろう。それと同時に、対処法も編み出せるようになるはずだ。

・AIの登場は、労働市場における感染症や癌――その病名は「効率性」である――などではなく、一種のうじ虫療法(うじ虫に壊死した細胞を食べさせ、傷口を治療すること)だと考えればいい。AIは人間らしさを失った部分だけを食べ尽くし、人間を健康に戻してくれるだろう。

・自分のしていることが単なる繰り返しになったり、慣れを感じたりするようになったら、エネルギーを注ぐ新たな対象を見つける潮時だ。

・ミュージシャンがいつまでも楽しそうにドラム演奏で独創的でい続けられるのは、一つには、彼は絶対に退屈な思いをしたくないと心に決めているからだ。

・定石が人をボットにする?

・試しに、使い慣れない言葉で会話をはじめるか、会話を締めくくってみるといい。手に負えないほどぎこちなくぶっきらぼうに感じるだろう。使い慣れない言葉を思いつくだけで精一杯となり、言葉を思いついても、それを口にするだけで精一杯になる。人間には習慣が染みついているのである。

・チェスの対局は第一手からはじまり、チェックメイトで終わると思われているが、そうではないのだ。ゲームがはじまるのは定跡から外れたときであり、終わるのは定跡に入ったときだ。

・棋士というのは、クラブ所属のアマチュアであっても、好みの序盤定跡の手筋を覚えることに多くの時間を費やすものだ。こうした知識は計り知れないほど貴重だが、落とし穴にもなる。どんなに並外れていようと、理解していなければ丸暗記は役に立たない。いずれ記憶のロープをたどって端に行き着き、棋士は初めて見るあまり理解していない局面に取り残される。

・デートに関するウェブサイトや書籍では、お決まりの会話の切り出し方を紹介し、丸暗記と反復に重点をおいている。一つの話や一つのやり方をひたすら繰り返せば、自分が何を話しているか考える必要もなくなる。それだけ、次ぎの行動を考えるとか、他のことに頭を使える。どう切り出せば会話がどうつながるかは十分にわかっている。未来が見えているようなものだ。

・驚いたことに、最初から何を質問するか、どの順番で質問するかを決めていて、相手がどう答えるかをまったく気にかけないインタビュアーがあまりにも多い。インタビューを受けながらうっかり口を滑らせる相手も多いのに、そこを追及しなければ何も得られない。

・若い世代の棋士がコンピュータを使って数千という序盤定跡を丸暗記するだけで、本当に分析能力に長けた棋士に勝ってしまっている状況に愕然とした。チェスは序盤の理論ばかり、「丸暗記と下準備」ばかりになってしまった。

・ジャン=ポール・サルトルは、人間は「まず実存し、この世界に不意に姿を現して、その後で定義されるもの」だと記している。人間を定義するものとは、人間が自分の目的を知らないこと、そして人間にはいずれ発見されることになる天から与えられた目的もないことである。

・虎は獲物を追うべきもの/鳥は空を飛ぶべきもの/人は座って「なぜだ、なぜだ、なぜだ?」と考えるもの

・職業が一つしか選べなければ、何をして生きるか迷うことはない。2008年の不況を受けて、興味深いことに、僕の20代の知人の多くが、どんな仕事をしていても安泰とは限らないと知り、自分の「天職」を探そうとしなくなった。

・チューリングの論文が発表されたことで、コンピュータは実質的に、その「実存が目的に先んじる」最初の道具となった。コンピュータが穴あけや懐中時計と決定的に違うのはこの点である。人間はコンピュータを先に作り、あとから使い道を考えているのだ。

・成功したあとでどうするかということを教えられていなければ、成功しても退屈の餌食になるより他はない。

・友情の最善の形とは特に目的も目標も持たないものだ。

・少なくとも、自分が生きている社会環境に影響されない、純粋な生まれたままの「本当の自分」が存在する、という考えは迷信だ。人間というのは、実際には、生まれたときから社会の影響を受けている。したがって、社会性という衣を脱ぎ去ったところで、最終的に本当の自分が残るわけではない。なにも残らないだけだ。

・僕の友人の脚本家は、以前に「素人の作品はすぐにわかる。登場人物がちゃんとした文章で喋っているからね。現実にはそんな喋り方をしている人なんていない」と言っていた。

・どうやら、書面記録から動画に時代が移り変わった結果、宣誓供述の世界も変わりつつあるらしい。ある鑑定人が不愉快な質問をされたあとで、証言をしている弁護士をじろっと横眼で睨み、たっぷり55秒もかけて居心地悪そうに座り直してから、気取った様子で敵意を露にしながら「思い出せない」と答えた。彼は書面にしか証拠が残らないと考えていたのだ。ところが、その様子を録画した「動画」が法廷に提出され、彼はまずい立場に追い込まれることになった。

・会話とは協調であり、即興であり、相手を息を合わせて真実に突き進むものであることも多い――激突(デュエル)というよりも二重奏(デュエット)なのだ。

・大統領候補がライバルを攻撃し、反論したり嘘を暴いたりするのはよく見る。だが、大統領候補同士が建設的に話し合い、意見を交換し、相手を説得し、なだめ、譲歩する姿を見ることがあるだろうか――実際に大統領になれば、こうしたことが主な仕事になるはずなのに。

・不意に、彼がベストを着ているのに気づいた僕は、最初にかけるべき言葉をはっきりと悟った――「やあ、いいベストだね」そして一度話しはじめれば、会話を続けるのは簡単だった。考えてみると面白い。無難な服を着ることは、実は一種の「防御」であり、ホールドのない岩壁を他人に向けて、話掛けにくくしているのかもしれない。どんな服でも鎧になるのだ。

・退屈な人とは「お元気ですか」という質問をまともに受け止めて説明しはじめる人である。

・退屈な人とは相手が口をはさむまで話をやめない人である。

・最も優れた作家とは誰かを判断する場合、誰が言葉を最も変化させたかということに重点を置くべきだ。英語のネイティブであれば、シェイクスピアによる造語を一切使わずに日常会話をすることはほぼ不可能だ。「息を殺して(bated breath)」「心の奥底で(heart of hearts)」「厄介払い(good riddance)」「お決まりの言葉(household words)」「潮時(high time)」「ちんぷんかんぷん(Greek to me)」「日がな一日(live-longday)」などなど、数え上げればきりがない。

・ある本を実際に読む代わりに、その本の要約本や批評記事、あるいはその本に関するエッセーを読む人々に対する非難がときどき聞かれる。でも、仮に『アンナ・カレーニナ』の分量の1パーセントしかない批評記事で「主旨」の60パーセントが伝わってしまうほど『アンナ・カレーニナ』の情報密度が低いのだとしたら、それはトルストイのほうが悪いのだ。

・人間には、生後間もなくと死ぬ間際を除けば、2万8000日前後しか寿命がない。非可逆圧縮である注釈を読んで別の本に移りたいという人がいても、誰が責められるだろうか。

・「語るな、描写せと」とは、多くの著作活動のワークショップで使われている格言である。

・「それから誰もが幸せに暮らしましたとさ」という結末ほど、がっかりするものはない。情報エントロピー的には「それからあと、面白いことも変わったことも、彼らの身に再び起こることはありませんでした」と言っているのと同じだ。少なくとも「それからあと、彼らの40代、50代、60代は想像通り平穏無事に過ぎて終わりました」と言っているようなものだ。

・このようなおとぎ話が離婚の種をまいていると言っても過言ではないだろう。結婚したあとに何をすべきかなんて、誰も知らないのだ。

・エントロピーという概念のおかげでわかることがある。ある問いについて最も深い洞察が得られるのは、その反応や回答を一番予測できない友人や同僚、相談相手にその問いをぶつけてみたときだということだ。さらにもう一つ、この命題を逆にすると、ある人物について最も深い洞察を得るには、その人の回答が最も予測できない問いをぶつけるべきだということになる。

・「何か変わったことはないか?」という問いは、興味深く永遠の広がりのある問いである。だが新たに変わったことだけを追い求めても、ただ瑣末なことや一時的な流行が果てしなく続き、明日には堆積物になるだけだ。

・僕自身、テキスト予測機能を頼りにしている。その結果、無意識のうちに、自分の語彙が手のなかにある携帯電話と同じになってゆくのだ。



機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる

機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる

  • 作者: ブライアン クリスチャン
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2012/05/24
  • メディア: 単行本



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