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『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』 [☆☆]

・ヤンキーは上下が厳しい。ギャルはかなり目上でも同い年でもタメ口。

・ヤンキーは就職しようと思ったらスパッと切り替えるけど、ギャルはギャルのまま就職しようとする。

・一般にオタクは、素の状態での情緒的コミュニケーションは苦手なことが多いため、感情をいったん定型句に落とし込んで記号化し、その記号だけを交換しようとするのだ。

・まぶしければ「目が!目がぁ!」と叫び、殴られれば「殴ったね!おやじにも以下省略」と言い返し、高い所に登れば「人がゴミのようだ」と言う。

・日本のお笑いの特殊性は、そのかなりの部分が芸人のキャラに依存して成立している点である。ネタを文章に起こしても十分に笑える芸は松本人志や爆笑問題などの数少ない例外を除けばそれほど多くない。

・一般にコピーライターという職業は、ありきたりな概念をオリジナルな言葉に置きかえる作業である、ということだ。新たな概念を生み出す仕事ではない。

・徹底して現状肯定的であること。彼らは個人が社会を変えられるとは夢想だにしていない。わずかでも変えられるのは自分だけであり、社会が変わりうるとしても、それは結果論でしかない。

・彼らの人気は、彼が「何をなしたか」ではなく、「どう生きたか」という「生きざま」のほうに、圧倒的に重心が置かれている。

・キャラの機能をどんどん抽象化していくと、意味も役割も外見もそぎ落とされて、「同一性」だけが残るのだ。同一性というのは、場面や環境が変わっても、同一のキャラクターと認知されるために必要な最低限の特徴を意味している。だから極論すれば、アルファベットの一文字だけを使っても「キャラ」は作り出せるのだ。

・内面よりも行動が重視される。彼らが何を考えているかはどうでもいい。彼らが何をなしたかが問題なのだ。

・状況に対する「反応」は、キャラの印象を決定づける重要な行動パターンなのだ。

・しかし僕には、彼の人生哲学に彼の実人生がリアルに反映されていると素朴に信じる気にはなれない。成功者の哲学は、ほぼきまって、成功してから後付けで考え出されたものだ。

・ヤンキー集団は格差集団だろう。ほんの1パーセントにも満たない成功者の周囲を、膨大な落伍者が取り巻いている構図がイメージされる。

・成功者は自らの行動原理を哲学として語るだろう。落伍者はその言葉に熱く共感しながら、「オレもいつかは」と夢想する。

・「クソッタレの世の中」という言葉に注意しよう。この言葉には、ヤンキーの社会に対する関心の希薄さにも通ずるような、曖昧な汎用性がある。つまりいつの時代でも通用する言葉、ということだ。

・彼はしばしば「熱」を語る。教師は「光」になる必要はない、とも。光は影を生み出す。しかし熱は影を作らない。だから熱なのだ、と。

・この種のプリミティブな情緒を重視する発想は、しばしば極端な反知性主義に走ってしまう危険性がある。

・彼はいつでも、自らの帰属する居場所の規範に忠実だった。なぜならその場所は、彼が自ら選んだものだったから。そう、居場所の選択における自由主義優位と、選択後の集団主義優位という形式は、ここでも見事なまでに一貫している。

・その背景にあるのは、自由で自立した個人であるためには、何らかの知的スキルの向上が不可欠であるという信念ないし常識である。おそらくこれこそが、わが国における「熱血教師もの」に欠けている視点ではないか。

・「中央」から発信するよりも、そこから外れた周縁的存在として言葉を発するほうが、人々の耳目をかき立てる上でははるかに有効であることが多い。

・父性的に「ひきこもり」と向き合うには、どうすればいいのだろか。答えは簡単である。彼らが社会に積極的に害をなす存在でない以上、対応は放置でよい。

・「行動してみなければわからない」という言葉は「関係してみなければわからない」と言い換えられるし、さらには「関係しさえすれば何とかなる」という素朴な信念は、すでに反知性主義の芽をはらんでいる。

・知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずるという共通の特徴ゆえに、知性への決定的な不信から抜け出すことができないのだ。

・家族のためでもなく、仲間のためでもなく、ただ自分自身のためだけに貫かれる規範なき正義。究極のナルシシストだけが獲得できる純粋な公共性。

・「目立つこと」をめざしてなされる「逸脱」は、「いまここ」しか問題にしない。そう、「いまここで目立つこと」だけが重要なのだ。

・二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。

・これらの儀式は、まるで起源がどこかにあることを匂わせるような「様式」を持っている。しかし実際は、それは起源など存在しないという事実を隠蔽するためにとりおこなわれる、フェイクの儀式なのだ。

・始源はいかなる場合も虚構である。そこには常に始源の前に起源があるかの如き騙りひそんでいる。起源が「隠され」ようとする。むしろ始源が起源を虚像のように浮かばせてしまうのだ。

・社会的な経歴には傷を付けない程度の反道徳的行為や態度、逮捕などの危険性が少ないグレーな仕事や知識。





世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析

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  • 作者: 斎藤 環
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/06/30
  • メディア: 単行本



世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析 (角川文庫)

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