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『生まれながらのサイボーグ』 [☆☆]

・携帯電話ショップが満員だったのも不思議はない。そこにいた人々は、ただ単に新しいおもちゃを買っていたのではない。彼らが購入していたのは、マインドウェアのアップグレード、つまり彼らの手が届く範囲、思考、視野を拡張し、変形することができる電子義肢だったのだ。

・サイバネティクス学科のほとんどは1960年代初期に消え失せ、計算機科学、認知科学、人工知能の各学科に取って代わられたからだ。

・不透明なテクノロジーの場合、使用者と道具は絶えずはっきりと区別される。使用者にとって進行中の問題は、うまく道具を配置し、コントロールすることである。

・ペンと紙で武装した、熟練した著述家は、エッセイや詩の創作を試みる際、大抵はペンと紙という道具に注意を払わない。これらの道具は透明な道具となる。

・私たちの脳は豊かな内部モデルをわざわざ作ろうとはしないのだ。そんなことをする必要があるだろうか? 世界自体は安定してそこにあり、そこにはあらゆるデータが複雑かつ完璧に保存されている。必要な時にはいつでも、サッケード(跳躍性眼球運動)によって特定の場所を一時的に注視すれば、即座にデータを取ってこれるのだ。

・どんな種類の知識が重要かというと、それは、そこに何があるかについての詳細な知識ではなく、むしろ、そこに何があるかについての大雑把な考えなのだということがわかってくる。

・メタ知識とは、世界についての基礎的な知識ではなく、情報をどうやって獲得し利用するかについての知識である。

・遠距離通信研究は靴よりも松葉杖を作ることに向けられすぎている、と彼らは論じる。どちらも道具なのだ。私たちは靴と同じぐらいに松葉杖に馴染むことができるかもしれないが、松葉杖の設計目的は見つかった欠陥を治療することにあり、靴のそれは新しい機能性を提供することにあるのだ。もしかすると、新しいテクノロジーは後者を目指すべきなのかもしれない。

・私たちは画家や詩人や科学者について「ああ、なんと哀れな魂だろうか。本当は彼女があの絵/詩作/科学理論を創り出したのではない。だって、ほら、自分の脳の非力さを埋め合わせるために、ペンや紙、スケッチに頼らなければならなかったのだから」と言うことは決してない。

・物理的な書類は、摩耗という歴とした証拠によって有用な情報を提供する。汚れのひどいページはおそらく非常に重要であるか、特に問題を含んでいるかであり、そのページにはしばらく留まる価値がある。

・初期の不適切な強調によって、他の人々もその箇所に長く留まることになり、強調がさらに強化され、そしてまたさらに多くの人々がそこに留まる、以下同様。このようにして、暴走する正のフィードバックによって悪化していく、ある種の集団的注意狭窄障害に陥る危険性がある。

・幸福で繁栄した都市を「栽培」するコツは、まさしく共同コントロールに加わるスキルである。それは成り行きに任せながら、流れが望ましい方向に向うことを巧妙に促すスキルである。

・「アフガニスタンを爆撃して、石器時代に戻そう」というならば、それは的外れだ、という。それはこの犯罪が極悪ではないからではなく、「それはもうすんでいる」からだ。「ソ連がその手間をかけてくれた。アフガニスタンの人々を苦しめる? 彼らは既に苦しんでいる。彼らの家を潰す? もう潰れている。彼らの学校を瓦礫にする? もうなっている」。



生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works)

生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works)

  • 作者: アンディ・クラーク
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2015/07/24
  • メディア: 単行本



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