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『「自分」から自由になる沈黙入門』 [☆☆]

・「とにかく自分のことを理解させよう」として自分語りをする気持ちがビシバシと伝わってくると、見る側はそれだけで疲れ果ててしまいます。

・「ジブン」についての話はそれがたとえどんな内容でも、相手にとっては基本的にツマラナイ。誰もがジブンのことに精一杯で、他人のクダラナイ「ジブン」のことなど聞きたくない。

・コミュニケーションや交際とは名ばかりで、お互いがお互いに「自分」を押し付け合っているのは、悲惨な風景と申せませぬでせうか。

・ケチをつけたくなる、という心理を仏教的に見てみると、「これにケチをつけられる私のセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおりまして、ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたい、という欲望と結びついているのであります。ゆえに、ケチをつける相手についてお喋りをしているように見えて、実は自分のことを語っている。

・文句ばかり言う人は、実は、ケチがつけられている対象にどっぷり依存している。なぜなら、欲も怒りも、対象がないとつくれない感情でありますから。

・ケチをつける回数を減らすだけで、その人の雰囲気には気品のようなものが漂ってくるもの。

・その場にいる相手がツマラナイ話や聞きたくない話をし始めましたら、上手に話の腰を折ってあげることぞ大切に思い候ふ。

・無理して相手を否定したり言い負かしたりしても、相手は不愉快になってしまうだけで、良い方向に変わってくれることなどまずありませぬ。そこでそんなときこそ、相手の言葉をさらっと「さようですか」で流して、あとは静かに沈黙する勇気を持ってみては如何でせうか。

・人が「本当に思っていること」などタカが知れていますし、たいていはクダラナイものにすぎませぬ。それが伝わったからといって、誰が嬉しい気持ちになるわけでもない内容なら、そんな考えは葬ってしまえばいいだけの話であります。「本当に思っていること」を、相手に伝える必要なんかマッタクナイ。

・人が口にする言葉には、どんなにいい加減な発言にも、その人の個人的かつ手前勝手な「意見」が入っています。つまり、言葉には「ジブン」が入っておりますゆえ、どうでもいいクダラナイ意見であっても、意見が否定されるとものすごく不愉快になり候ふ。

・もっともらしい理由をつけて正当化されているものほど、うさんくさいもの。

・「嘘に決まってる」と偉そうに呪文を唱えて気持ちよくなっている阿呆ぶりであります。

・ほとんどの人は、自分でも気づいていないくらいしょっちゅう、何かに対する否定的な文句を連発している、否定の魔術師であります。

・ホメルもケナスも、見えない物差しに相手を当てはめて測る行為。

・ホメられたとき、ちょっと人をくった雰囲気で軽々と受け流せてしまう雅さこそ、相手におどらされもせず、相手を否定しもせぬ、中立的な優しさと思ひ候へ。

・仏道はついつい「~仏」を信仰する教えだと思われがちですが、もともとは、己自身を徹底的に見つめる中で、生活や思考のスタイルをデザインする方法、というニュアンスが強かったのであります。「己」という部屋のゴミを捨て、徹底的に大掃除し、その後で、どんな家具がしっくりくるのかをレイアウト・デザインし直すためのテクニック、言い換えれば精神の鍛練。

・自分が何かしようとしているのを、他人がじろじろ観察していたら恥ずかしくなったり、シラケたりして、やりたくなくなるもの。ヨクボーもそれに似て、他人事のように自分の心をジロジロ眺め、ヨクボーに駆られている自分の心に「あ、恥ずかしい」と感じさせてしまえばよし。この、自分を他人事のように眺めてみることで、感情が客観視されて落ち着く、というプロセスをさらに効果的につくりあげたのが仏道の方法なのであります。

・食欲に流されそうになっている場合を例にとり候へば、「食べたいと思っている、食べたいと思っている、食べたいと思っている」という具合に、心の状態を観察しながら繰り返し、言葉で確認するように念じてみると、摩訶不思議なほどヨクボーは消え去ってしまいます。

・「相手に変わってほしい」と思うのは欲と怒りの心ですから、その雰囲気=波動をぶつけることで、相手はよけい頑なになって変わらなくなります。

・たとえどんなに、献身的に尽くすのが好きそうに見える人にしても、実際は「我慢」をしているだけの話。「我慢」の限度をこえたら、「これだけしてあげたのに」てふ不満の気持ちが爆発いたします。

・今の時代が人を傷つけるツールに満ちあふれているというのは事実でありませう。ゆえに、非難されても動じぬ「防災意識」が必要になってまいります。

・そもそも、「非難」に対し、いちいち腹を立てたり傷ついたりするのは、「自分はこれだけしっかりやっているのだから非難されないはず」と、期待や幻想があるからであります。

・仏教の立場からは、世の中は非難に満ちているのだから、「非難されてもそんなの当たり前だよね」くらいの感覚で幻滅しておくことを、推奨いたす次第であります。

・「カワイソウ」と言って見返り抜きの同情を寄せることができる相手は、決まってどこか遠く、TVスクリーンの向こうにいる被災者だったり難民だったり。

・いかに「身近に」感じられる相手であっても、安心して馴れ合いになってしまうのではなく、あくまでも一人の「他者」=「他人」として敬意をもって接することが、長きにわたり、新鮮かつ良質な関係を保ってゆく秘訣と申せませう。

・生きるも死ぬも独りきり、というストイックな幻滅が、ここにはあります。孤独だと意識することで、すっきりとフッきれて、どんな人とでもこだわりなく交流ができるようになる。

・仏道とは、奇麗な幻滅からハッピィさをつくる道であるやもしれませぬ。

・本当はドッチデモイイはずのことを、いかにも「こっちの方がよいからこうするべきだ」といった気持ちにさせ駆り立ててしまうのが、「欲望」なのではないか。

・「喜怒哀楽こそが人にとって大切なのに」という、あまりにもベタな反応が、しばしば起こるものであります。されど喜怒哀楽によって得られる刺激は、ファストフードのきつい味つけ。それに慣れてしまうと、洗練された上品な味つけの料理が「無味乾燥で不味い」としか感じられぬもの。
・痛み、寒さ、凝り、かゆみ、などをはじめとする不快なる感覚は、ココロが情報処理して勝手に作り出している雑な感覚にすぎませぬ。

・人はよく「感謝してもらおうと思ってやったわけじゃないけれど」と言い訳をしますが、悟った人でもないかぎり、良いことをしてあげたら「感謝してほしい」てふヨクボーは何パーセントかはまぎれこんでいるものなのです。

・どちらか迷っているということは、どちらにも欠点があるということであり候ひて、すなわちどっちでもよい、てふこと。



「自分」から自由になる沈黙入門

「自分」から自由になる沈黙入門

  • 作者: 小池 龍之介
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2008/03
  • メディア: 単行本



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