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『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』 [☆☆]

・文革には紅衛兵、ナチスドイツにはヒットラー・ユーゲント、クメール・ルージュでも多くの少年兵たちが虐殺に加担した。子供ほど純真で残虐な生きものはいない。

・ならばなぜ、彼らは退治されねばならなかったのか? 理由は明らかだ。悪いことをしたからではなく、存在自体が悪なのだ。ジャーナリストはこれを放置しない。過去の悪行を忘れるなどもってのほかだ。被害者の遺族たちは大勢いる。許せない。彼らのためにも、鬼たちは滅びねばならない。口をぬぐって平和な生活を享受することなど、絶対に許してはならない。

・報道の使命は報せることと悪を絶つことです。反抗する悪には、中学の卒業アルバムの顔写真と、ビデオ屋でレンタルしたビデオやDVDのリストを日本中に晒すという奥の手があります。

・第二次世界大戦末期、日本は特攻隊を編成した。敵艦に激突できる確率はとてつもなく低い。そう言ってこのプランに反対する将校に、「死ぬことが目的なんだ」と厳かに答えた上官がいたという。組織はこうして暴走する。

・人は弱い。秘密を保てない。なぜなら共同体の一員としての本能が疼くからだろう。自分だけが秘密を知っているという事実は、自分だけが共同体から逸脱しかけていることと同義なのだ。これはリスクでもある。リスクはできるかぎり軽減したい。

・憲法二十一条と放送法三条は、メディアの自由を最大限に保障した。ところがメディアそのものが、この自由さに耐えられない。規制してもらうとやっと安心する。

・少年時代に父親が大切にしていた桜の木を斧で切り倒してしまった合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンは、怒る父親に自分がやったと告白し、「その正直さは一千本の桜の木以上の値打ちがある」と逆に褒められました。父親が息子を褒めた理由は、正直な告白感動したからではなく、息子が斧を手にしたままだったからです。

・コウモリの種の数は、現在発見されているだけで世界中で約九百九十種。およそ四千三百から四千六百種と言われる哺乳類全体の四分の一近くを占めているわけで、確かに鳥にとっても獣にとっても、もしも戦争が起きたときには、絶対仲間にしておきたい一大勢力だ。

・要するに人前で話すことに向いていない。向いていないくせに無理をする。よせばいいのにつまらないギャグを口走り、会場の反応がないから内心は焦る。焦るからまたあらぬことを口走り、さらに収拾をつかなくさせてしまう。

・年金を円滑に担保するために、納付者である若年層を受益者である老齢人口より常に多くしておかなければならないならば、これは要するにネズミ講だ。いつかは必ず破綻する。

・戦争は結局のところ自衛の意識の高揚で起きる。やらねばやられるとの意識が立ち上がり、互いに自衛を主張しながら攻撃しあう。

・本は外の世界への扉であると同時に、現実からの逃避でもある。

・優しさや純粋さは、時として他者を深く傷つける。悪意が介在するのなら、きっとどこかに躊躇いが滲む。ところが優しさや純粋さは、躊躇いがないだけに、致命傷を与える場合が多い。しかも優しくて純粋な加害者は、ほとんどの場合は他者の苦しみに鈍感だ。

・王子は固有名詞じゃないのよ。あなたが獲得した属性でもない。二世議員みたいなものよ。自己のアイデンティティを、そんな他者の合意による呼称にしか見出せないなんて、とても不幸なことよ。わかる?

・希望があるから人は絶望する。地獄は希望を与えない。救いや夢などもない。だからこそ人は、永劫に近い長いあいだ、切られたり焼かれたり目玉をくりぬかれたり熱く煮えたぎる鍋の汁を飲まされたりしながら、ただひたすら時を過ごす。

・一番の問題は、「ハザード」と「リスク」の区別がないことである。たとえばある物質の一グラムのもつ毒性が他の物質一グラムの毒性に比べて大きければ、その物質はハザードである。しかし、人の健康への危険度、つまりリスクはその物質の毒性の強さと摂取量とで決まるから、強いハザードでも摂取量が小さければリスクは小さくなる。人間にとって大切な指標は、ハザードとしての特性ではなく、リスクの大きさとその特性である。

・事件が起きる。もちろん「それ」は危険だ。でも「それ」の恐怖に脅え、過剰なセキュリティを発動することの副作用は必ずある。何よりも、「それ」一辺倒になってしまうと、「これ」や「あれ」の危険が目に入らなくなる。

・結局あなたは、人間に絶望しながら、その人間に自分を含めていない。これは大きな過ちです。

・あんたが本当に不戦の誓いをたてたいのなら、兵士を祀る靖国だけじゃなくて、両国で毎年三月に行われる東京大空襲で焼き殺された人たちの慰霊祭にも足を運ぶべきでねえか。

・民族や宗教は、確かに殺戮の歯車の一つになることが多いけれど、でも歯車は歯車で。これだけじゃ動かない。駆動する力が必要だ。

・不安や恐怖が共同体の危機管理意識を刺激するとき、「私」や「おら」などの一人称単数だった主語が、いつのまにか「我々」や「この村」など、組織や複数を表す言葉へと変わります。すると述語は暴走します。何しろ主体は自分という個人ではなくて、大きくて強い共同体になっていきますから。こうして気づいたときには戦争は始まっていて、人は事後に天を仰ぎます。なぜあんな馬鹿げたことをしてしまったのかと。



王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)

  • 作者: 森 達也
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 新書



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