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『不都合な相手と話す技術』 [☆☆]

・日本文化では、ことのほか「言わずとも通じる」ことを大切にしてきた。だから、余計な説明をする人間を「野暮」と呼んだのである。余計な説明を求める人間も同じこと。

・「言わずとも通じる」ためには、多くのものを共有している必要がある。わずかな言葉から同じことを連想するためには、文化の基盤をなす知識や経験はもちろんのこと、その背景をなす価値観の共有が絶対的な必要条件なのである。

・「野暮」な人間は、日本人なら共有しているべきものを保有していないということで、嘲りの対象となったのだ。

・相手のことはわからないと思えば、かえって気も楽というものである。相手の予想外の言動や行動を楽しむ余裕さえ生まれる。

・「相手の意見を尊重しましょう」とはよく言われるが、これは人権尊重のためだけではない。むしろ「そうした方が身のため」だからだ。もしかすると相手は自分の全存在をかけて意見を言っているのかもしれない。ならば、とりあえず尊重しておいた方が身のためなのだ。

・男も女も黙って事をなすのが東洋の美学なのだ。

・おとなしいこと自体は悪くないのである。言うべきときに必要なことを必要なだけ言えばよい。あとはおとなしくしていて構わない。口数で負けても内容で勝てばよい。

・価値観の共有がない以上、自分と同じ礼儀正しさを相手に求めてもムダである。分をわきまえろと言っても通じないのだ。

・相手のペースに無理に合わせようとするから、相手の価値観でバカと評価されてしまうだけなのだ。

・価値観の決定的に異なる相手とは、妥協という形でしか「対話」は成立しないのである。

・社会で求められるのは「自分が何を知っているか?」よりも「自分はどう思うか?」である。

・そもそも「十分な知識と経験」という発想自体が危なっかしい。「知識と経験のあること」が意見を言う資格であるとすると、知識と経験の多寡が意見の優劣を決定するという発想に結びつきやすいからだ。こうなると知識と経験の豊富な人間の前では、誰もモノを言えなくなってしまう。

・人間とは面白いもので、自分の目の前にないもの、遠く離れたものを安易に理念化してしまう。実像から都合の悪い部分をすべてそぎ落とし、理想的な虚像を作り上げてしまうのだ。

・理念化された現実は少なくとも「本当のこと」ではない。

・「自分は論理的に説明したのに相手は全然理解してくれない。アイツはバカだ」などと怒ってはいけない。自分のことを「わかってもらえる」と余計な期待をするから、余計な腹も立つのである。

・いかなる権力であっても個人の内心に踏む込むことは許されない。心の中で何を考えようと、それは個人の自由である。しかし、それを言葉に表した瞬間に社会的な責任が生じる。

・特に多いのが「自分の経験」を特殊性として主張する人たちだ。経験を語ることが悪いというわけではない。「自分には経験があるからわかるが、経験のないあなたにはわからない」という姿勢が問題なのである。

・経験とは厄介なもので、本人にとっては紛れもない事実である。しかし、科学的知識などと異なり、多方面から徹底的に検証されたものではない。そのため「私の経験では……」と語ったところで必ずしも説得力はない。

・生物学的にインブリーディング(近親婚)がよくないように、知的な分野でもインブリーディングはよろしくない。同じ分野の専門家同士で考えているだけでは創造性が弱まってしまう。

・「思想と信条(良心)の自由」は、あらゆる精神的自由の根底をなす重要なものだ。人間が何を考えようと、それが心の中にとどまるかぎりは絶対に自由でなければならない。いかなる権力であっても、心の中に踏み込んで規制を加えることは許されない。だから他人に内心の開示を軽々しく求めてはならないのである。求められても答える必要はない。これが「沈黙の自由」だ。

・日本人は、内心と言動を切り離して考えることができないのである。これは日本的発想と欧米的発想の違いであって、そこに本質的な優劣はない。だが、この日本的発想が「意見を言わせる教育」において危険な鈍感力を生み出している。内心と言動を切り離して考えることができないためなのか、平気で子供たちの本心を聞き出そうとしてしまうのである。

・数多くの国々が革命や独立を経て現在の姿になった。日本といえば「昔から何となくあった」というような、フワフワとしたとらえ方をする。いつ・どこで・誰と戦って自由を勝ち取ったというような、ガチガチとした歴史ではないから仕方がないのかもしれない。

・あくまでも自分は相手の話しをよく「聴き」、理解できないところや納得できないところがあれば「訊く」(=質問する)ことが対話なのである。

・世間は「七分の情と三分の理(知)」と言われるように、情で動く部分の方が大きい。

・人間とは面白いもので、自分が思っている通りに相手が決めつけてくれると大喜びで同調するが、自分が絶対に同意できないことを決めつけられると感情的な反発が先に立つのである。

・どんなバカでも相手を非難することはできる。賢い人は相手を理解しようと努めるものだ。

・何をもったいないと感じるかは価値観によって違う。1円を惜しんで時間を大量に使う人もいれば、1分を惜しんで金銭を大量に使う人もいるだろう。それを互いに「もったいない」と非難し合っても無駄なことだ。

・「仕方なく」「敵」と共存することを選択するのも、平和へとつながる一つの道なのである。

・そもそも「わかりあう」ことは、それほどすばらしいことなのだろうか? 世の中には「知らなければよかった」と思うようなことが多々ある。

・歴史というと単なる事実の記録のように思われるかもしれないが、現実にはそれぞれの国の価値観を強烈に反映しながら叙述された「物語」だ。

・相手の仮面には仮面で応じるのが基本である。相手が自分への信頼を「演じる」のであれば、自分は相手の信頼を受け入れたかのように「演じる」のだ。

・大体は学問の基礎・基本をなす知識と技能が伝授された。それが社会に出てから役に立つかどうかは問題ではない。「教え込み」「覚え込む」というプロセス自体が、社会に出てから役に立つことだったのである。

・対話が終わるとき戦いが始まる。だから対話を続けなければならないのだ。

・相手が言葉で挑発してきたとしても、絶対に取り合わないことが重要だ。言葉以外の手段で相手を黙らせることだけを考えるのである。

・「すみません。隣で歌うのをやめてもらえませんか?」 「やめろって、あなたに何の権利があってそんなことを言うんだ?」 「いや、特に権利はないと思うので、こうしてお願いしているんです」

・近所に「気をつけよう/おとなはこどもに/道聞かない」という標語が掲げられている。おそらく道をたずねるふりをして子供に近づこうとする不審者が多いからなのだろう。

・「教養のある人」は「絶対に~だ」という表現は使わないというのである。

・誰にでも「絶対に正しいと思うこと」や「絶対に大切だと思うこと」はあるものだ。ただ、自分にとっての「絶対」は、必ずしも他者にとっての「絶対」ではない。その意味で、唯一の「絶対」は存在しないのである。

・各人が「自分が絶対に美しいと思う日本語」と「自分が絶対に正しいと思う日本語」を追究することが、結果として日本語の「美しさ」「正しさ」を保つことになる。

・ヨーロッパの古典的なエリート教育では、「自分の尊厳を傷つけるような発言や行動はしない」ということを、根本的なプリンシプルとして徹底的に生徒にたたき込んだ。

・人間は他者との価値観の違いを感じ取ったとき、そこに優越感や劣等感を結び付けて考えてしまうのだという。単なる違いであるにもかかわらず、優劣の違いとして認識するというのだ。

・何しろ日本とは異なる価値観を見せつけただけで、日本人は「日本の価値観は劣っている。これはマズイ」と勝手に思ってくれるのだから話は早い。逆にいえば、それを見せつけられる側は、悪用されないように注意した方がよい。外国の、それも欧米の価値観を見せつけられたときには、特に注意した方がよい。



不都合な相手と話す技術 ―フィンランド式「対話力」入門

不都合な相手と話す技術 ―フィンランド式「対話力」入門

  • 作者: 北川 達夫
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2010/09/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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