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『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』 [☆☆]

・私はネット上の匿名相談サイトにこの問いを投稿してみた。往々にして学識をもてあましているか、自説にこだわりすぎる人々の、文殊の知恵を借りようとしたのだ。

・残念ながら、人は他人の善意につけ込むものだ。

・かなりの事故が「交通モードの変化」、たとえば運転の後で歩くなどの際に起きている。あたかも自動車から降りてからも、身を守られている感覚を引きずっているかのようだ。

・相手が我が身の非を自覚している可能性は低い。だから、あなたの行為は、ただ単にキレているだけと思われるかも知れない。

・射殺隊の標的が目隠しをされ、あるいは後ろ向きに並ばされるのはなぜか。これらは殺される側のためではなく、殺す側がその行為に少しでもためらわないようにする工夫なのだ。

・道路上では、いわばオンラインのチャットルームに偽名で参加しているようなものだ。自分のアイデンティティを失い、「ハンドルネーム」(道路上でのナンバープレートと同じだ)しか知らない相手に囲まれていると、日常のくびきから解放される。

・自動車の中にいるときと同じく、人は仮想世界の匿名性をまとって、ついに素に戻れるのだ。さまざまな個人差はいったんご破算になり、夜郎自大がつのる。非合法行為でもない限り、何でもやりたい放題だ。

・いまだに先史時代の村人なのだ。だから、人に何か親切にしてもらうと、「ああ、味方がいた」と思う。脳はそれを、長期的な互恵関係の始まりと考える。

・譲り合いを渋るドライバー、「互恵的利他主義」に基づく関係を持ちたがらないドライバーは、単純に相手を見ないか、あるいは見ないふりをする。物乞いに対する態度と同じである。アイコンタクトをしない方が、無視しやすい。

・人の善意をあてにしていない、あるいは善意は状況が許す場合にだけ発揮されるという考えに基づいている。

・大半の人は毎日おおむね無事に運転している。そして少しずつ、自分の運転は並み以上と思うようになる。

・平均的なドライバーは、総じて大過なく運転できている。それが、問題の一つだ。そこにはフィードバックの系がない。何年間も下手な運転をしていながら、それを思い知らされないために、自覚できていないのかもしれない。運転中に携帯電話をかけながら、「どこが危険だと言うのだ。1日に2時間も通話しているが無事に運転できている」と思うかもしれない。でもそれは、ただ幸運だっただけかもしれないのだ。

・労災による1つの死亡事故もしくは重大な事故が1件起きる背景には、29件の軽度の傷害事故があり、さらに300件のニアミス──あるいは「ヒヤリハット」──事故がある。彼はこの関係を有名な「ハインリッヒの三層ピラミッド」にまとめ、ピラミッドの頂点層である重大事故を減らすには、低層をなすニアミス事故や、真ん中を構成する軽度の事故を減らすべきだと主張した。

・たいていの人は、このピラミッドの上二層を見て、ドライバーの運転技術を推し量る。だが実際には、低層のニアミスこそ本当の指標になるのだ。

・ドライバーは衝突事故や反則切符の数で自分の運転技量を評価している。だが、同乗者はそれとは別の基準でドライバーの腕前を評価しているのだ。同乗者はみな、緊張のあまりアームレストを握りしめたり、思わず車の床に脚を突っ張ったりしながら、ドライバーをニアミス事故の観点から評価している。

・自分は運転が上手い、携帯でメールを見ても、通話しても、飲んでも大丈夫──そんな風に、人はみな勘違いをつのらせていく。

・人は「運」を自ら作り出すことができる。たとえば、顔の広い人は、知り合いの少ない人よりも、「世界は狭い」的な幸運な出会いにより恵まれやすい(そして顔の狭い人は、そんな機会になかなか恵まれない自分を「不幸」だと思っている)。

・経験の浅いドライバーは、経験豊富なドライバーと大きく異なる「視覚サーチ」パターンを持っている。自分のクルマのすぐ前と路肩を見過ぎているのだ。一方、ミラー類の確認は不十分で、車線変更のときでさえそうである。

・見るべき場所を心得ていること──そして自分が見たものを覚えていること──は、運転の経験と技量の証明である。

・実際、本当に見ていないかもしれない。ものを見ている時間の五分の一はまばたきや「サッカード(がたつき運動)」と呼ばれる視点移動のために視界を遮られている。その間、私たちは事実上、盲目と同じである。

・私たちや物体がどれくらい速く移動しているかではなく、物体が私たちの網膜に対してどれくらいの割合で拡大してくるかである。だから、30メートル離れたところを時速60キロで走ってくる自動車を目で追うのは、3メートル離れたところを時速6キロで歩いてくる人を視認するのと変わらない。「網膜速度」が同じだからだ。

・コオロギは折々の栄養的ニーズにしたがって、慎重に餌を選ぶ。そして、その最良の供給源は、えてして隣人である。コオロギは腹を空かせると共食いを始める。

・世俗的な法(交通関係法など)よりも宗教的戒律をより高く考えるため、通常の法律を破る気になる。

・駐車場がなければ交通も成り立たない。路上のすべての車には、出発点と目的地に必ず駐車場が必要だ。そしてたいていは、そこでじっとしているのである。車は時間にして95%は停まっている。

・道路については、「造れば人は来る」という言い回しがある。だが、新たに造っていないからといって、人々が来ないということにはならない。

・人々は交通渋滞を一方的に悪者と決めつけている。だがそれは重要な点を見逃してた後ろ向きな議論だ。なぜなら偉大な街で混雑しなかったことがあるだろうか、というものである。

・人にはどうしようもない詮索好きな一面があるばかりか、他の人が見られるのに自分だけが見逃してなるものかという心理にも駆られる。

・食品、衣料品、住居は無料にはならないと誰もがわかっている。もしそれらが無料だったら、あっという間に取り合いでなくなってしまうだろう。道路がいつも混んでいるのは、それが無料だからだ。

・長い列ができているから、人気があると客は思うのだ。実際には、長い列は処理能力が小さいためなのだが。

・正確な予測をするには、人々が予測に対してどう反応するかも考慮に入れなければならない。さもなければ、予報は正確にならない。

・人々をバカのように扱えば、バカのように振る舞うだけ。

・大半の人は、歩道橋の階段を上る苦労より、道路を横切る危険を選ぶ。

・ビルが機能を果たせるようにするには技術者の仕事が欠かせないが、ビルがどう使われるべきかを考え、空間の配置を決めるのは建築家である。

・インドでは年間に10万人が交通事故で命を落とし、これは世界の交通事故の十分一を占めている。

・人々はまったく順法意識というものを失ってしまった。国家主席毛沢東が反逆を勧め、権威を疑えと焚きつけたのだから。

・「常識」は人によって異なる。人はたいてい自分が正しいと思っているから、疑問を感じる他人の行動に反発する。

・女性の方が理論的な腐敗に手を染めにくく、実際に調査したある国においても女性管理職の方が腐敗が少なく、各国ごとの腐敗度ランキングを見ても腐敗の少ない国ほど女性の社会進出が進んでいる。

・2007年、世界で最も清潔な国に数えられているフィンランドは、閣僚級の女性登用が世界で最も進んでいる国でもあった。そしてフィンランドは、交通違反においての混乱も最も少ない国である。

・人は運転中に、リスク・アナリストになる。

・リスクを理解することはロケット科学ではない。もっと複雑なのだ。

・スカイダイビング自体がより安全になると、多くのダイバーたち、特に若い人たちは、それをより危険にする方法を見つけ出してしまった。これを「リスク・ホメオスタシス」と呼んでいる。人はリスクの「目標水準」を持っている。

・世界中のほとんどの場所では、他殺よりも自殺の方が多い。世界で1年間に人に殺されたり、戦争で命を落とす人の数よりも、自ら命を絶つ人の方が多い(約100万人程度)。

・現在、スピード制限を多少オーバーしても目こぼしされていることは、やがて、かつての職場での喫煙と同じように、遅れていた時代のこと、とみなされるようになるかもしれない。

・ハンドルにたいした意味はない。運転は何より、足でするものだ。ハンドルでなんとかしようとすると、たいてい害の方が大きい。

・ABS装着車の場合、制動しながら舵を切れることもわかった。

・「車線逸脱警告」装置などにつきまとう問題の一つは、警告装置は発展の一途をたどっているが、結局、それに注意を払い、それに従って運転するのは人間であることだ。



となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

  • 作者: トム ヴァンダービルト
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/10/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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