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『古典力』 [☆☆]

・世界中で教養の基本とされているものを知らないのでは、教養の程度だけではなく、人格までが疑われかねない。

・その時々の人気だけなく、そのジャンルでの新たな手法や新たな常識、スタンダード(基準)を作り出したかどうかが、古典の条件となる。

・多様な価値観を理解し受容するには知性が求められる.数々の古典を自分のものとしていくことで、この知性が鍛えられる。

・自分の好き嫌いや快不快だけで判断せず、背景や事情を考え合わせ、相手の考えの本質をきちんと理解する.この深みのある思考力が知性だ。

・「引用できるようにしよう」という明確な狙いを持って古典に接していなければ引用力は身につかない。

・肩の力を抜いて、パラパラとページをめくる。そして、偶然出会った文章に心をとめ、そこから何らかの刺激を受け取る。名著にひれ伏すのではなく、自分にとって刺激があるかどうかで断片を楽しむ。

・論語の言葉による人物鑑定法だ。まず外にあらわれた行為を「視」て善悪正邪を判断する。さらに、その人の行為は何を動機にしているかを「観」る。これに加えて、その人の安心はどこにあるか、何に満足して暮らしているかを「察」するようにする。

・行為と動機と、満足する点。この三点で自分が見られると思うと、見透かされる感じがする。

・シェークスピアは、銀の皿に金の林檎をのせて、われわれにさし出してくれる。ところがわれわれは、彼の作品を研究することによって、なんとか銀の皿は手に入れられる。けれども、そこへのせるのにじゃがいもしか持っていない。これではどうにも恰好がつかないな。

・洞察力のある人間が増えることで、優れたものが評価され、文化の市場も豊かになり、文化の質は向上する。観る者たちの審美眼が文化を育てるのだ。

・環境には周囲に存在している客観的なものの意味合いがあるが、環世界(Umwelt)は「主体が意味を与えて構築した世界」である。

・『日本書紀』は中国正史の「本紀」をモデルとした、正式な様式の歴史書で、天皇家を中心とした日本の体制をきちんとした「国家」として、自国のみならず他国にも示そうとするものだった。『古事記』も天皇家の支配の正統性を示す目的は同じだが、ゆるいスタイルになっている。

・この僧都が法師に、「しろうるり」とあだ名をつけたが、「それはどんなものか」と人に問われて「そんなものは私も知らないが、もしあればこの僧に似ているだろう」と言った。

・好みは誰にでもある。しかし、ありとあらゆるものについて好みをいうだけのエネルギーは普通ない。

・愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。

・誰が監視しているかはわからない。しかし常に監視されて続けている。この精神状態が続くとどうなるか。自分で自分を監視するようになるのだ。監視の一方的視線を自分の中に内面化してしまい、自発的に「権力による強制」を自分自身に働かせるようになる。これが「自発的服従」だ。こうなると権力側は暴力を使って服従させる必要はなくなる。

・「日本人の微笑」は、他人を不愉快にしない礼儀正しい作法だ。

・色と金の二つの車輪で世は回る。

・物理学は人類の達成。高校での履修三割の現状は情けない。「選択の自由」による可能性の制限。必修科目であるべき。

・「ゆく河の流れは絶えずして」の後がいえない人は階段を踏み外した可能性大。



古典力 (岩波新書)

古典力 (岩波新書)

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/10/20
  • メディア: 新書



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