『非社交的社交性 大人になるということ』 [☆☆]
・人間はまったく一人でいることもできないが、といって他人と一緒にいると不快なことだらけである。
・カントは普通の「人間嫌い」ではない。むしろ、いかにして気に入った人のみ受け容れ気に入らない人を遠ざけるか、という「わがままな」課題に取り組んだのだ。
・他人はただソファやクッションのように、自分の生活を快適にするための「設備」にすぎなかったのである。
・他人を恐れる人は、決まって他人による自分の評価を恐れる人、他人に「よく思われたい」という欲求が強い人である。
・現代日本では、「弱さ」が美徳として罷り通り、弱者に配慮することばかり喧伝されている。
・互いの人格を尊重し合う対等な人間関係こそ理想であるが、これはそんなにやすやすと手に入るわけではない。そういう理想的人間関係を本気で求めるから、未熟な者は絶望し、底の浅い「人間嫌い」になるのである。
・われわれがある特定の他人に「期待する」ことは、場合によってその人を刺し殺すほどの凶器になりうる。
・わが子のみならず、一般に他人に過剰に期待することが、どんなに当人を苦しめ、期待に添えないのではないかという恐れと罪悪感で充たし、さらに期待する者を激しく憎むようになるか、他人に期待ばかりしている善人たちは知っておいたほうがいいように思う。
・相手を励まし、期待し、褒めるという「きれいごと」の洪水、しかもそれに「共感」を求めるという凄まじい暴力!
・「間違える人」はマヌケなのだから、彼らに合わせる必要はない、というヨーロッパ風の考えが絶対にこの国の風土には根付かない。
・彼らの一部はカウンセラーや精神科医のもとに通っているが、こうした専門家たちは、「生きていくために」治療しようとするのだから、「生きるとはどういうことか?」を求めている彼らを「治す」ことはできない。
・一般に、趣味の問題に足を突っ込むや「対話」は効果を失う。私はAが好きであり、あなたがAが嫌いであり、それで終わる。そして、それを「解決する」のは、権力関係だけである。
・観察していくと、彼が意図的に「問題を起こす」ことがわかってきた。いうなれば、自分の「わがまま」に必死にしがみついているのである。それは「自分が崩れてしまわない」ための全身の抵抗なのであろう。
・ふつう、この場合は許されたが、きわめて似ているあの場合は拒否されたという体験値の蓄積によって、納得しないままに「社会の掟」を学んでいく。
・バイト先で何度怒鳴られてもその意味がわからないという若者が多い。
・誰もどこに自分の欠陥があるのか、教えてくれない。なぜなら、「状況がまったく読めない」ということは、教えて直ちにわかるはずもない根本的欠陥だからである。
・彼らは、拒否されることを通じて、自分には欠陥があることを知っている。だが、その実感がない。自分のロジカルで合理的な態度のどこが悪いのか、と不満げである。
・生身の人間は次の瞬間に何をするかわからず、どんな要因で気が変わるかわからず、自分と異なるどんなロジックでこちらを責めてくるかわからず、よってそれが読めない者にとっては「深い=親密な」人間関係は、無性にくたびれ、恐ろしいだけである。
・あるとき九九を憶えなかった子が、あるとき漢字を憶えなかった子が、あるとき英文法の基礎を憶えなかった子が、それらを「あとで」取り戻すことが難しいように、自然な人間の喜怒哀楽に共感や反発をする能力、いやそれ以前に、他人の振舞いの「意味」がわかる能力を培ってこなかった青年が、「あとで」それを取り戻すのは大層困難なのだ。
・もし哲学で成功できたら、自分の「人間的欠陥」をいささかも直すことなく、しかも世間を軽蔑しつつ世間から尊敬される。これほど都合のいい道はない。
・日本独特の「恥」が完全に消滅していると言わざるをえない。とくにルース・ベネディクトが注目した日本的恥の大部分を占める「公恥」、すなわち社会的・一般的基準によって他人より劣ったところに対して、ほとんど感じるところがない。他人より貧しくても、弱くても、知識がなくても、恥ずかしがることがない。泰然としているのである。
・純朴な態度は、また自分の無知を全然恥じないという態度とも奇妙につながっている。
・「完全に正しい」自分の感受性を単発的に爆発させるだけでは、周囲の人々はどんどん逃げていくであろう。次第に「誰もわかってくれない」というマイナスの実績のみが蓄積され、本人は全然成長しないであろう。
・対人コミュニケーション能力が絶望的に欠如している若者たちにとって、恋愛関係は対人コミュニケーションの最難関であるから、生身のガールフレンドを持つこと、まして結婚相手を見つけるのは至難の業なのだ。「結婚でもしておくか」という軽い気持ちで結婚はできないのである。
・「ひとり」で生きていければ、なんといいことであろう? だが、それはなんとも難しいことであろう? 働くことはできる。だが、そこには人間がいる。そこで、躓いてしまうのだ。
・カントは普通の「人間嫌い」ではない。むしろ、いかにして気に入った人のみ受け容れ気に入らない人を遠ざけるか、という「わがままな」課題に取り組んだのだ。
・他人はただソファやクッションのように、自分の生活を快適にするための「設備」にすぎなかったのである。
・他人を恐れる人は、決まって他人による自分の評価を恐れる人、他人に「よく思われたい」という欲求が強い人である。
・現代日本では、「弱さ」が美徳として罷り通り、弱者に配慮することばかり喧伝されている。
・互いの人格を尊重し合う対等な人間関係こそ理想であるが、これはそんなにやすやすと手に入るわけではない。そういう理想的人間関係を本気で求めるから、未熟な者は絶望し、底の浅い「人間嫌い」になるのである。
・われわれがある特定の他人に「期待する」ことは、場合によってその人を刺し殺すほどの凶器になりうる。
・わが子のみならず、一般に他人に過剰に期待することが、どんなに当人を苦しめ、期待に添えないのではないかという恐れと罪悪感で充たし、さらに期待する者を激しく憎むようになるか、他人に期待ばかりしている善人たちは知っておいたほうがいいように思う。
・相手を励まし、期待し、褒めるという「きれいごと」の洪水、しかもそれに「共感」を求めるという凄まじい暴力!
・「間違える人」はマヌケなのだから、彼らに合わせる必要はない、というヨーロッパ風の考えが絶対にこの国の風土には根付かない。
・彼らの一部はカウンセラーや精神科医のもとに通っているが、こうした専門家たちは、「生きていくために」治療しようとするのだから、「生きるとはどういうことか?」を求めている彼らを「治す」ことはできない。
・一般に、趣味の問題に足を突っ込むや「対話」は効果を失う。私はAが好きであり、あなたがAが嫌いであり、それで終わる。そして、それを「解決する」のは、権力関係だけである。
・観察していくと、彼が意図的に「問題を起こす」ことがわかってきた。いうなれば、自分の「わがまま」に必死にしがみついているのである。それは「自分が崩れてしまわない」ための全身の抵抗なのであろう。
・ふつう、この場合は許されたが、きわめて似ているあの場合は拒否されたという体験値の蓄積によって、納得しないままに「社会の掟」を学んでいく。
・バイト先で何度怒鳴られてもその意味がわからないという若者が多い。
・誰もどこに自分の欠陥があるのか、教えてくれない。なぜなら、「状況がまったく読めない」ということは、教えて直ちにわかるはずもない根本的欠陥だからである。
・彼らは、拒否されることを通じて、自分には欠陥があることを知っている。だが、その実感がない。自分のロジカルで合理的な態度のどこが悪いのか、と不満げである。
・生身の人間は次の瞬間に何をするかわからず、どんな要因で気が変わるかわからず、自分と異なるどんなロジックでこちらを責めてくるかわからず、よってそれが読めない者にとっては「深い=親密な」人間関係は、無性にくたびれ、恐ろしいだけである。
・あるとき九九を憶えなかった子が、あるとき漢字を憶えなかった子が、あるとき英文法の基礎を憶えなかった子が、それらを「あとで」取り戻すことが難しいように、自然な人間の喜怒哀楽に共感や反発をする能力、いやそれ以前に、他人の振舞いの「意味」がわかる能力を培ってこなかった青年が、「あとで」それを取り戻すのは大層困難なのだ。
・もし哲学で成功できたら、自分の「人間的欠陥」をいささかも直すことなく、しかも世間を軽蔑しつつ世間から尊敬される。これほど都合のいい道はない。
・日本独特の「恥」が完全に消滅していると言わざるをえない。とくにルース・ベネディクトが注目した日本的恥の大部分を占める「公恥」、すなわち社会的・一般的基準によって他人より劣ったところに対して、ほとんど感じるところがない。他人より貧しくても、弱くても、知識がなくても、恥ずかしがることがない。泰然としているのである。
・純朴な態度は、また自分の無知を全然恥じないという態度とも奇妙につながっている。
・「完全に正しい」自分の感受性を単発的に爆発させるだけでは、周囲の人々はどんどん逃げていくであろう。次第に「誰もわかってくれない」というマイナスの実績のみが蓄積され、本人は全然成長しないであろう。
・対人コミュニケーション能力が絶望的に欠如している若者たちにとって、恋愛関係は対人コミュニケーションの最難関であるから、生身のガールフレンドを持つこと、まして結婚相手を見つけるのは至難の業なのだ。「結婚でもしておくか」という軽い気持ちで結婚はできないのである。
・「ひとり」で生きていければ、なんといいことであろう? だが、それはなんとも難しいことであろう? 働くことはできる。だが、そこには人間がいる。そこで、躓いてしまうのだ。
タグ:中島義道
2013-06-21 14:34
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