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『なぜ勉強させるのか?』 [☆☆]

・勉強するということは自己を革新していくことであり、鍛えていくことでもある。

・子供(若者)は、社会や時代の思う通りにも、必ずしもならない。思う通りになったら社会は停滞してしまう。思う通りにならない異質の部分が、社会を進めていく。

・わが子をどういう人間にするかよりも、どれだけ労働力として経済的に高く売れるかにばかり関心が集中している。

・わけ知り顔の指導主事たちは、「生徒が40人いたら40通りのカリキュラムが必要」などと教師たちを恫喝して回っていた。

・教育は子供を「人間的に成長させる」というよりは、子供の学力を高めて、少しでもいい高校へ、少しでもいい大学へ通わせて、子供の競争力(労働力の交換価値)を高めるという経済的発想が一般的になっていく。

・高校の進学率が九割を超えるということは、実は勉強したくない、勉強しようともしない子供たちが高校生になるということであった。

・高校でも「何人○○大学へ入りました」が宣伝文句になっている。高校にとって大学進学者の数しか商品価値(セールスポイント)が無いのである。

・「ゆとり」か「学力向上」かの教育議論において、根柢(無意識)のところで争われていたのは、「子供を社会に合わせる」(「学力向上」)か、「教育を子供に合わせる」(「ゆとり・生きる力」)かの難問だった。

・子供たちは自分に関係する人からしか学ばないのです。関係が深い人から多く学ぶというシンプルな原則で動く。

・偽善はあながち悪ではない。偽善を完全否定したら、人は、普遍とか理想とか絶対とかを語ることすらできなくなる。

・教師の方にすぐれた何物かがなければ、応える子供(生徒)は現れない。しかし、どんなにすぐれた教師でも、応えてくれる子供(生徒)を作り上げることはできない。そこに応える生徒(子供)が居てくれなければ、教師はほとんど何もできない。

・子供が言葉や習慣や習俗や法的な感覚(センス)を身につけて近代的個人になっていくことは、そんなに簡単なことではない。。「自分」の内部に異質なもの(社会や世界や法や他の人々の感覚など)を導き入れて、そういう外部(「自分」ではないもの)によって「自分」を構成しなおすことだからである。勉強するということは、そういうことなのである。

・大人も子供も、アイデンティティを自分だけで支えることはできない。普通は自分がこう思っている「私」が、自分以外の周りからそう思われている「私」と一致したときに、アイデンティティは成立する。

・「ゆとり教育」でどんどん教えるレベルを低くしたせいで、かつての(下位の生徒の)落ちこぼれではなく(上位の生徒の)吹きこぼれが生じて、能力をもっと伸ばしたい子供が諦めてしまっている。

・子供を近代的個人にしていく「社会化」(教育)と、それこそ太古の昔から続く子育て(養育)をごっちゃにしている。この二つはかなり重なっているが、次元の違うことである。

・学校はそもそも家族から世界への移行を可能にするために、我々が家庭の私的領域と世界との間に挿入した制度である。

・テレビがぬるま湯のようだと言われたのは、見ている者の自己変革が求められず、何ら成長することもなく、ただいい気分で見ていられるからであろう。

・「なぜ勉強しなければならないのか」という問いが出てきたら、まともに真正面から答えるのではなく、できるだけ焦点をぼやけさせて曖昧にしてしまうのが適切であろう。世間的な理屈や必要で納得するくらいなら、子供もはじめから問い出すわけがない。

・その場に居合わせなかった作家の大江健三郎氏が「そういう質問はするべきではない、倫理性を欠いた質問だ」とコメントしたと伝えられている。常に人類的立場に立って、高いところから発言している大江氏らしいもっともな理屈である。

・相互の差異性を明らかにするためには、勉強ができるようになったり、人気者になったり、お金がたくさん稼げるようになったり、社会的地位を上げたり、ブランド品を買ったりして、特化しなければならない。つまり、身分などによる差異がないから、競争的にお互いの違いを確認しないと、自己のアイデンティティが確立できない。近代人の孤独である。





なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

  • 作者: 諏訪 哲二
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 新書



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