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『数字が明かす日本人の潜在力』 [☆☆]

・「自然に手を加える」という概念が、「開発」と考える日本と、「保護」と考えるドイツとが、真っ向から対立するのである。

・学校教育をフォーマルな教育というなら、家庭の中で自然に身についていくものは、いってみればインフォーマルな教育である。

・日本人は、「……ではないが……することはやむを得ない」という表現も好きである。しかしこれでは、本来の願望の表現を端的にあらわしているにすぎず、意見とはいえないかもしれない。

・二者択一の設問があったとき、日本人の心のなかでは、どちらの意見もいいが、強いていえばこちら、という程度の差しかついていないということである。白か黒かはっきりしないのである。

・カソリックは、日本でいえば弘法大師の密教なようなものではないだろうか。もはや生活の表にはあらわれてこないが、生活の随所に溶け込んで、存続しつづけている。

・利害の衝突する国に対して、まず行動に制約を加え、次に経済封鎖を行なって経済状態を悪化させ、さらに武力による威嚇で挑発する。そこで相手国がたまらず反攻に出たところで、全面的な戦争に突入するというパターンである。

・ルーズベルト大統領は、日本の奇襲攻撃を国内の戦意高揚のために利用したのだが、そうしたことが可能なのも、この「信・不信」の考えの筋をアメリカの国民が根強く持っていたからではないか。

・アメリカの国民性が、相手を信用できるか否かを非常に重視するものであったからこそ、「奇襲」という言葉で語ることに意味があったのである。

・国としてのまとまりをつくっていくためには、合理的たてまえを絶対化する以外に方法がない。これがアメリカ文化の特色である。

・「言葉ではっきり表明されたこと」しか真実と認めないのも、アメリカ文化の特色である。

・われわれ日本人は、同窓会や送別会、あるいは学会や研究会などで、ごく自然に幹事を選出し、運営組織をつくっている。こうしたことが自然にできるのは、日本人とユダヤ人だけだという。

・中国の組織ではトップが末端に直接指示を出すのが普通であり、中間層が存在しない。日本のように、運営組織が自然に固まり、しかもその中でなんとなく役割分担が決まり、ピラミッド型の指揮命令系統が自然にできあがるなどということは、中国ではあり得ないのである。

・少数意見を尊重しすぎたら、必ず衆愚政治に陥る。ところが、多数決を「弱者の切り捨て」などといってマスコミが嫌うから、話がおかしくなる。

・日本の国会で、天下国家を論じ、政策を論じ、政治理念を論じるなどということはまずない。では、国会で何が行なわれているのかというと、「いった」「いわない」「金を受け取った」「受け取っていない」などという私事の追求である。

・もし日本に二大政党制が導入されたら、いったいどうなるだろう。対立する政党の議員の私事を暴露、追及するばかりで、国の大事な政策はいっこうに進展しないことになるだろう。

・日本では「何もしないこと」が高い内閣支持率を維持するための条件である。

・従来、日本人は「古い」か「新しい」かという筋に則って、さまざまな現象、ものに対する価値観のよすがとしていた。「古い」ものを退け、「新しい」ものを選択する傾向が顕著だったのである。

・巷間いわれている「保守回帰現象」とは、あくまでも見かけだけの問題であって、その本質は「伝統・近代」という考え方の筋の崩壊だということなのである。「伝統・近代」という対立軸から解放された日本人が、自由に回答した結果、たまたま伝統的価値観に基づく回答が増え、それが保守回帰的に見えるだけなのである。

・無党派層は、いいかえれば「既成政党嫌悪層」であって、とくに新しい政治理念を持った層とはいえない。したがって、政治を本質的に変革する積極的な力は持っていない。

・日本は、科学技術や産業において、世界のトップクラスに立ってしまった。追いつくべき目標、すなわち手本を失った状態では、自己創造していく以外に発展を続ける方法がなくなってしまった。手本にならって自己改造するのではなく、自ら新しい価値や技術を生み出さなくてはならない。すなわち、自己創造である。

・「伝統・近代」という筋を持たない「新人類」は、素直な目で、それまで「旧人類」が破壊し否定し続けてきた日本の伝統文化や風習を見つめ直すことになるのである。

・世の人物論は、「ドラ牌の条件」に関するものばかりである。人物論はみな、その人の人間性を高く評価する。そして、その人が、あたかも温かい人間性だけでリーダーとなり得たかのような錯覚を起こさせる。そこまでいくためには「アガリの条件」がなければならないことが、意外に描かれていない。

・「アガリの条件」である実務能力や指導性などはある程度、努力によって習得することができるが、人間味があること、清廉潔白であることなど、「ドラ牌の条件」はそうそう簡単に身につくものではない。

・日本人は、一次集団(家族関係)で成り立つ関係は、二次集団(一般社会や企業)でも成り立つと考える傾向がある。日本人の心の中では、一次集団に対する意識と二次集団に対する意識が未分化なのである。

・日本人の人を疑わない性格は、しばしば相手に善意を押しつけ、理解されることを強要しがちである。

・「しかたがない」という気持ちは義理、「自分はやりたくない」という気持ちは人情である。義理と人情がひとかたまりになっているから、自己を犠牲にするという感覚はない。日本には「滅私奉公」という言葉はあるが、日本人の心の中には自己犠牲という言葉はない。

・「土下座外交」「謝罪外交」「事なかれ外交」などと呼ばれる日本の外交の根底には、意味もなく良好な人間関係(国の関係)を築きたいと考える日本人的発想がある。外交の場で、国家の代表という立場を忘れ、相手に好かれよう、よく思われようと必死になってしまう。へつらい、謝り、それで先方が少しでも好意的な態度を示そうものなら、好機とばかりにさらにお追従を並べ立てる。

・談合は、戦後の日本経済の奇跡ともいえる成長を支える不可欠の要因となった。

・日本には「中流意識」はあっても、「中産階級」はほんのわずかしかいない。国民のほとんどは、「少」産階級なのである。

・一生涯働きづめに働いても、次代に残したいと思うような財産ひとつつくれないというのも、情けない話である。

・実は、米沢という土地は、日本でもきわめてお化けの話が多い土地柄なのである。似たような土地として、カッパやお化けで有名な、あの『遠野物語』の遠野がある。



数字が明かす日本人の潜在力 (講談社SOPHIA BOOKS)

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  • 作者: 林 知己夫
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/08
  • メディア: 単行本



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