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『イソップ寓話の経済倫理学』 [☆☆]

・悪い本性が教育その他によって根本的によくなるということはありえない。

・人間が個人として自立し、競争して生きることが基本であり、さまざまな集団や国家は、そのために個人が利用すべきものにすぎず、逆に、集団や国家を「保育器」のように考えてそれにすべてを託すような生き方は不可能だ。

・イソップの世界は、会話と行動が記述されるだけで、詳細な情景描写も心理描写もないが、登場者の喜怒哀楽は誰にでもそれとわかる。

・行動が成功するか失敗するか、どのような結果をもたらすかは、賢愚(時には美醜)の差で決まる。賢いものが成功し、愚かなものは必ず失敗する。

・他人に比べて自分が見劣りすると思い、自己嫌悪、不満、劣等感にたえず責められている人はある種の病気に近いのに対して、自分に満足している人は基本的には健康である。

・ゼウスが人間に火を与えなくなった時に、神々から火を盗んでこっそり人間に与えてくれたのもプロメテウスであった。人間にとっては技術の恩人のような神様の一人であるが、この人間に対する肩入れは、この神様が人間に特別好意を抱いていたためではなく、ゼウスに対する反抗のためだったかもしれない。

・自分のアイデンティティとは世間が自分をどう定義しているかということである。

・妻は夫に幻想を抱かず、尊敬もしない。

・食欲とか性欲とか、粘膜に関することでゴチャゴチャ言うのは変態の発想です。

・善をなすのは坂を上るようなもので、努力しなければできない。悪いことをするのは坂を下るようなもので、努力しなくても楽にできる。

・古代ギリシアの遊女はヘテイラと呼ばれたが、彼女たちを愚かなものの代表に使ってはいけない。もとは敗戦その他の事情から奴隷として売られた女性であるが、遊芸んほか学問、詩なども教育された才色兼備のインテリ女性も多かった。

・「忘れねばこそ思い出さず候」 あなたのことは忘れないのだから思い出すということもないのです。

・日本人は指導者に「茫洋として包容力のある人格者」を求めるが、頭の冴えた有能な人物を求めない。

・極端な自己犠牲をともなう利他主義や献身や社会貢献といったものはありえないし、それを人に要求するのも間違っている。

・海外から大概のものを輸入し、真似をする日本人も、この宦官と纏足だけは見向きもしなかった。

・人間の世界では人がかならずほしがるものはカネである。もらう方もこれが一番有り難い。かさばった品物をもらうよりも、この「薄っぺらな紙切れ」の方が断然いいのである。

・「無差別のヒューマニズム」はやはり間違っている。それは援助する側にその力や余裕が無限にある場合にだけできる話で、現実には実行不可能である。それは口で言うだけのヒューマニズムになる。

・他人は「社会的貢献」をしているのに、自分にはそれができないと苦にする人がいる。しかし「できないものはできない」と言えることが重要である。それを許さないような社会は正常な(自由のある)社会ではない。

・人間には、自分の成功を摸倣することで失敗するという「失敗のパターン」がある。日露戦争でロシアに勝った日本にもその傾向があった。

・「やられたらやり返しておく」ということは、大げさにいえば「サバイバル」のための基本原則である。そうでないと、相手も世間も、「あいつは何をされても泣き寝入りだ」ということを「学習」し、以後そういうくみしやすい人間と見て、ますます勝手なことをしてくる恐れがある。

・制度を悪用しなければ損だと思うような人にとっては、生活保護は「働かないことによって得られるご褒美」なのである。

・動物の行動を見てむやみに感情移入するのは滑稽である。

・屠龍の術。ある人が龍を屠る術というものを学んだ。千金の授業料を払い、三年もかかってその術は完璧なものになった。ところが、龍というものがどこにもいないので、この術は使い道がなかった。

・「有名医」に高いカネを払うことで満足する金持ちは、できるだけ安く確実に病気を治したいと思う庶民とは、満足の仕方が違っているのである。

・ある貧しい男が町へ行ってカネを借りようとしたが、この男を知らないというので、誰も貸してくれなかった。そこで村に帰って借りようとしたが、今度は誰もがこの男のことを知っているので、貸してくれる者はいなかった。

・医者は病気を撃滅することに関心があり、患者は自分が健康を取り戻すこと、死を免れることに関心がある。

・自分に自信がもてない、まわりの評価に不満や疑問がある、というので「自己調査」でもしてみようかと思うようでは、すでにダメな証拠である。

・「自分はこんな人間である」ということは、自分が思って決めることではなく、まわりの人間が決めることである。

・子供の数を制限して一定水準以上の生活を維持しよう、というみみっちい態度。

・知識人など一部の日本人が西洋化の一環として自由な恋愛を礼賛しはじめたのも、もとはといえば、中国流の結婚観を否定して、男女が家の意志に縛られることなく、個人として自由に結びつくことに、近代化や進歩のシンボルを見出したからであった。

・権威あるお上にお願いして自分に都合のよい裁定をしてもらうことしか考えていない庶民は、本当の正義も真実も実はどうでもよい問題であり、裁判はお上が供給してくれるサービスの一種にすぎない。

・政治家が収賄容疑で起訴されて、まず「カネをもらった事実はありません」と全面否定し、証人が出てきて分が悪くなると、「もらったカネは政治献金でした」と収賄性を否定し、次にそれも通らなくなると、「カネと引き替えに便宜をはかってくれと頼まれたが、その件については自分には職務権限がない」といった調子で、最後まで無罪を主張する。

・日本人は独特の「裁判観」をもっているようで、裁判とは「真実」を発見する手続きであるかのように思っている。そこで裁判官とは、常人にはわからない真実を明らかにしてくれる人で、ほとんど神のような明知明察の人であることが期待される。

・人を殺した罪に対しては本来死刑だけが「釣り合う」のであって、情状酌量の余地があるとすれば、それは殺された方にも相当な非があって、「これでは殺されても仕方がない」と誰もが思うような場合に限られる。犯人の方に「貧しい家庭で育った」等々の気の毒な事情があったということは、酌量すべき事情とはいえない。

・占い師に本当に未来が予見できるようなら、しがない大同占いなどやっているはずがない。

・マクロ的予言の方は、エコノミスト、国際政治学者、地震予知学者などの専門家や評論家が気楽にまきちらしている予測や予想から「ノストラダムスの予言」のようなものまでさまざまである。

・「麒麟も老いては駑馬に劣る」という。最初から麒麟ではなく、平凡な馬にすぎなかったものの老後の能力低下は推して知るべしである。

・不死人間も普通の人間と同じように老衰し、病気がちになり、多くは老人ボケになったが、そのままの状態でいつまでも生きていた。

・この国の人々の間では長寿を望む気持ちは余り強くない。何しろ日頃「不死人間」の見本を見せつけられているからだ。

・ジョナサン・スウィフトは晩年痴呆状態に陥り、自分が『ガリヴァー旅行記』で描き出した、老醜無惨の姿でただいたずらに長生きする……不死人間ストラルドブラグさながらに死んだという。

・日本人は、相手に合わせて妥協するのが賢明な態度で、その方がうまくいくと思いやすい。これはしかし仲間や身内の間でしか通用しない。一般には、相手に合わせて譲歩していると、「弱いから譲歩している」と見られ、相手はさらに嵩にかかって攻め込んでくるのである。

・新聞はお客様である一般大衆の悪口や批判は絶対に書かない。大衆がバカだから、などと口が裂けても言わない。

・小さい子供に向かって、ものわかりのよさそうな顔をして、「自分のことは自分で自由に決めなさい、その代わり自分で責任をもちなさい」などと言って自分は面倒なことから手を引き、子供を放任しながら、それを子供の自由と人格を尊重することだと思い違いしている親が多い。これは単に親の責任放棄を正当化するための理屈にすぎない。

・日本人好みの「ほのぼのとしたホームドラマ」では、登場人物が互いに善意でお節介をしあうことからトラブルが生じ、それをときほぐすことでドラマが進行する、という筋書きになっていることが多い。

・どんな専制君主でも、人々に嫌われるよりは好かれる方が気分がいいもので、嫌われる位なら恐れられる方をよしとする。

・人には普通、自分のことしかわからない。他人についてはよく知らないまま、自分のことから類推して勝手に判断する。

・とるべき態度としては、自分たちの不利にならない方にひとまず従った方が無難である。

・人は自分だけ見劣りがしたり、落ちこぼれたりすることを好まない。自分がそうなりそうな時は、できればまわりの人たちの足を引っ張って、悪い方、低い方に揃え、全員を横並びにしようとする。

・平穏無事の時には、人権主義者をはじめ、誰もが「多数のために少数を犠牲にするのはよくない」と言っているが、一人または少数のものを犠牲にすることで集団全体の利益が得られる場面に遭遇すると、たちまち全体が優先するという原理が復活し、犠牲者選びが始まるのである。

・決定は多数決の意思によるから、犠牲に選ばれた人間は逃れようがない。こういう場合には、民主主義は犠牲になる個人によってもっとも恐ろしい結論をもたらす。

・国家は本来国民を取って食らうことのできる恐るべき存在であって、やさしい保護者であると考えるのは間違いなのである。

・国家とは、そのテリトリーの中で最強の暴力手段が他を抑えて権力を独占することで成立する。その独占状態ができあがらず、いくつかの暴力集団に依然として権力奪取の可能性が残っている限り、政府に対して反政府勢力が軍事的挑戦を繰り返すので、内戦状態が続く。

・日本の知識人(大学教授、評論家など)は、「国政をお任せしたい」といって招聘されるほどの賢者ではないが、「国政についてご意見を伺いたい」と言われて各種審議会などに誘われると、二つ返事で委員になる。そして、官僚がお膳立てした方針に沿って答申書などを書きながら、国政を動かしたような満足感を覚える。

・夏目漱石も北海道に籍を移して徴兵逃れをした。徴兵令には兵役免除の規定がいくつかあったからで、それに北海道に籍のあるものも免除とされていた。漱石はこの規定を使ったのである。

・国家がますます多くの仕事を抱え込んで肥大化しながら、その仕事に押しつぶされて無能化しつつある時代でもある。

・剣の達人のような一芸に秀でたものは、芸者(武芸者)であって、武士ではない。

・ある分野でエラければ、他の分野についても一流の鑑識眼が備わっているはずだと、本人も世間も思いがちであるが、何の根拠もない迷信であろう。

・デモクラシーの下では、芸人=人気者が指導者に選ばれることがしばしばある。選挙は賢い人や有能な人を選ぶための制度ではない。それが目的なら選挙ではなく試験でもしなければならない。選挙はあくまでも人気のある人を選ぶ制度である。

・野豚を捕らえると大声で鳴くが、それには理由がある。豚は毛がなく、乳も出さず、肉以外に何もない。そこで人間に捕まれば自分がどんな役に立つかを心得ているので、たちまち死を予感するのである。

・強者は弱者から何かを奪いたい時、問答無用でそれを奪ってもよいが、普通はそうしないで、自分に正当性があるとか、相手に非があるからこうするのだとか、自分の行動を一応正当化しようとするものである。どんな強者も、自分が不正を働いているとは思いたくないのである。

・シギとカラスガイはどのみち漁夫に捕まっても仕方がない弱い動物である。その弱者同士が争っているからこそ、漁夫は利を占めることができるのである。

・日本では、規制必要論者や日本型資本主義の礼賛者たちが手をたずさえて自らの存立基盤を守り抜こうとしているが、これはこの前の戦争でいえば、敗色濃厚になればなるほど犠牲を重ねて頑張り続けた日本軍の姿に似ている。

・どんな国家も(軍事的に)強くなければ尊敬されない。
・外の世界を意識から閉め出し、自分の勝手な願望や気休めだけで戦うこと、これは究極の必敗法であり、究極の愚行である。



イソップ寓話の経済倫理学―人間と集団をめぐる思考のヒント

イソップ寓話の経済倫理学―人間と集団をめぐる思考のヒント

  • 作者: 竹内 靖雄
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1995/03
  • メディア: 単行本



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