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『戦争の世界史 ─技術と軍隊と社会─』 [☆☆]

・戦士にとって武装の変化は、病原体にとっての突然変異に相当する。

・近代戦の技術は、かつて戦場での一騎打ちに体現されていた筋肉本位の英雄的行為や、単純で動物的な勇猛さといった要素をほとんどすべて一掃してしまった。

・古代の帝王とその軍隊が直面した最も重要な限界は輸送と補給であった。金属と武器の供給は重要ではあったが、めったに決定的要因にはならなかったので、戦争の産業的側面の重要性はまだごく低かったといえる。

・鉄製のスキ先は耕作の能率を向上させ、粘土質の重い土壌の土地にまで耕作地を広げることを可能にした。この結果、ゆっくりと、しかし確実に社会の富は増した。

・補給を厳重に管理することにより、軍隊を決して独自の行動を起こせない状態にしておくことができた。

・民間企業家と文官とでは、どの分野で両者が遭遇した場合も民が不利であり官が有利であった。それはなぜかといえば、その根本的理由は、一般の中国人の大多数が、民間人が商業や製造業を通じて尋常でない富を蓄積することは不道徳でけしからんと感じていたためであった。

・最初期の大砲を製造するのに彼らが惜しみなく注ぎ込んだ努力は、この兵器の実際の威力によっては全然報われなかった。正味のところ、1326年から1世紀以上にわたって、大きな音を出すこと以外は、大砲のできることなら何でもカタパルトの方がずっとよくできた。

・資本は保護コストが最も小さいと考えられた場所へひじょうに急速に移動するものなのである。資本家のうち、重税が課せられている場所から脱出しなかった者は、たちまち国家に財産をむしり取られて没落した。

・それぞれの宗教は、それぞれ別個の社会集団から熱烈な忠誠心を寄せられていたから、世俗の階級闘争が神学論争の姿を借りることは普通であった。

・どこまで改良してもまだ改良の余地があるのが改良というものだ。

・集団をなす人間が、長時間にわたって拍子をそろえて一斉に手足の筋肉を動かしていると、彼らの間には原始的でひじょうに強力な社会的紐帯が、自然に湧きだし形成されるのである。

・ひとたびひとつの軍隊がその装備をそっくり標準化してしまうと、かつて何十種類ものまちまちな設計の武器が同時に使われていたときに比べて、いかなる設計上の改良であってもそれを導入することのコストははるかに高くなったのである。軍隊の調達担当者たちは、技術的改良を見送るか、統一が失われることから生じる不利益を甘受するかの二者択一をせまられた。

・理性と愛着との共謀の結果、イギリス軍においては、1690年設計の<ブラウン・ベス>とあだ名されたマスケット銃が、1840年まで歩兵の標準的な武器でありつづけたのであった。

・東ヨーロッパにおいては、19世紀の半ば過ぎまでは、人口の増加は解決すべき問題というよりはむしろ活用すべき機会であった。増加した人口を用いて、それまでは森や、荒れ地や、野草ばかりの牧草地であったところを穀物畑に変えることができ、しかもその耕地の拡大は農業労働や慣習化したルーティンのパターンになんら大幅な改変をくわえなくとも可能なのであった。

・<注文による技術開発>の前提となるものは<できるはずだという予感(ヴィジョン・オヴ・ザ・ポシブル)>である。

・産業革命もまた、同時代人にはほとんど自覚されなかったとはいえ、現代の歴史家たちがあと知恵であっけにとられ、いかにしてそしてなぜ起こったのかを詮索している。

・群衆統制の方法がヨーロッパ諸国の治安警察部隊によって組織的に開発されるのは、ようやく1880年代になってからのことである。1889年のロンドン沖仲仕ストライキのとき、はじめて「お願いします、立ち止まらないで歩き続けて下さい(キープ・ムービング・プリーズ)」の原理が確立した。つまり、あらかじめ決められた道筋をとおっての行動と平和的な意思表示は許容したのであった。いきり立った群衆に、何時間にもわたって肉体運動と大声で叫ぶことを許すことでそのエネルギーを無害なかたちで使い果たさせてしまい、そのことで実力行使によって群衆を追い散らす必要がないようにするのである。

・徴兵制が戦争に勝つという本来の目的を達するためには、毎年毎年軍隊の必要兵員数をみたし、かつ銃後での欠くべからざる業務を絶やさないだけの数の若者が、毎年その年齢に達することが前提であった。

・イギリスの金融・商業面における優位がヨーロッパ大陸の諸国民の間でいかに不人気になったとしても、その不人気の程度は、フランスの占領軍に服従し、それを扶養することを強いられた諸国民から、フランスの軍事的優位と経済的搾取が恨まれた程度に比べたらたかが知れたものであった。

・ルーティンに変更をくわえることが極小ならばその改良は採用されやすい。

・ハプスブルク王家はそれまで、負けたら怪我が大きくならないうちに後日の再戦を期して講和することで、ナポレオンやそれ以前のさまざまな競争相手よりも長く生きのびたのである。

・軍隊生活がルーティン的単純さを保つためには、ある定番の武器が標準化され、それに対応する教練が儀式化していなくてはならない。

・1880年代より前であったならば、議会は財産所有者と納税者だけを代表していたので、経済不況下であれば、税収が減った分だけ政府支出を切りつめろという要求がかならず出てきたものであった。

・そんな勘定をもたされるのはいやだという納税者の意見は、政治の場ではもはや決定打にならなかった。とくに、ますます多くの有権者が、勘定は富める者にもたせることができるし、またそうすべきだと考えるようになってからはそうであった。

・ビジネス感覚にたけているというよりは、むしろただの欲張りであった。

・1884年の選挙制度改革法案の成立により、有権者の数が格段に増加したことで、それまでのマンチェスター学派のしみったれた一文惜しみの政策は、かなりの程度まで新しい要求の前に押し流されてしまった。むりもない話で、新しく選挙権を得た大衆は、新規の支出項目の大部分の財源である所得税を納めていなかったのである。

・決定を下す人々自身、かならずしも技術面の事柄によく通じているわけではなく、他人の判断に頼っていた。

・問題が複雑で、かなり高度な数学的素養がなければ理解できない性格のものでありながら、その問題に最も密接に関与していた人々の大半にはそのような素養が皆目備わっていなかったという事情が、最小限の合理性すら欠如した政策決定を生みだしたのであった。

・ある外国を憎んだり恐れたりすることにより、潜在的な不平分子は、もっと身近な同胞を憎んだり恐れたりする傾向をそがれたのである。そのことは有産市民にとってだけでなく、実は社会主義者や労働者階級にとってもひじょうに安心感をもたらしたのであった。

・両次大戦は、人口増加が、農村部の伝統的生活様式に内在する人口受容能力の限界に達したことへの対応であった、と理解することができるのである。

・昔から彼らの父祖が暮らしてきたような暮らしかたができなくなったならば、かならずやあらゆる既存の社会関係の根本をゆるがす混乱が生じるものである。

・残った問題は、さまざまな革命思想がある中で、どれに、挫折感を抱いた若年層が引きつけられるかだけであった。

・もちろん、農村で土地が足りなくなって、若者たちに親たちと同様の暮らしかたができなくなった欲求不満が革命的な表出をするという現象は、まだ地球上から消滅したわけではない。

・陸軍の兵隊についていえば、これ以前のすべての戦争においては各種の伝染性疾患が、敵の攻撃よりずっと大勢の兵隊を殺してきたのであって、第一次世界大戦ではそれらに対して予防接種やその他の組織的な予防処置がなされたからこそ、そもそも塹壕戦の手詰まり状態があれほど長期間維持されえたのである。

・1918~19年のインフルエンザによる死者数の推計は、いちばん低い2100万人から始まって、高い方は天井知らずである。これは第一次世界大戦の戦死者数の二倍以上である。

・陸軍将校たちは、金銭的計算をこととする産業家たちに対する心底からの嫌悪感を抱いていた点で、労組の指導部や社会主義者たちと共通していた。

・土地不足に苦しむ農民の不満は、容易に国政レベルにおける、勢力圏拡張と軍事征服の対外政策への支持のかたちをとって表出したのであり、とりわけ、彼ら自身多く農民の生まれであった陸軍の下級の将校たちの間でそうであった。

・ある年度における航空機なり戦車なりの最も優れた設計をもとに生産にとりかかると、二年か三年先にはその軍隊はとっくに時代遅れになった航空機と戦車というお荷物をどっさり背負わされる結果になるのであった。逆からいえば、仮想敵国がその生産ラインをある特定の設計にコミットさせてしまうまで満を持していれば、敵より優れた装備を生産することが可能になるわけである。

・軍需産業での労働と兵役がインド人の集合的意識に強い印象をきざみつけたことによって、戦後の独立は不可避となったのである。

・兵器生産が時とともにますます複雑になってきたので、一国家というのはもはや戦争らしい戦争を戦うには小さすぎる単位となったのである。おそらくこれこそ、第二次世界大戦の最大の革新であった。

・経済が経営されていることそれ自体に対しては誰も強固に反対しなかった。ことばをかえれば、アメリカ人、西ヨーロッパ人、日本人の大多数にとって自由とは、官民の官僚機構によってあらかじめ道筋をつけられた行動様式への服従であり恭順でしかないものに退化していたのである。

・アメリカ社会のソ連との軍備競争における勝敗のゆくえは、煎じ詰めれば、軍事にかぎらず人間の努力のあらゆる分野においてどちらの国が相手よりすぐれた技能を発達させるかにかかっていると考えていた。

・信念のよりどころは第二次世界大戦中とその直後になされた大仕事の記憶にあった。あのときは、不可能としか思えない増産目標を、社会工学と技術工学を意図的に適用することで達したではないか。

・兵器の分野では、SF小説と技術的現実が、門外漢にはおぼろげにしか理解できないようなかたちでまざりあってしまった。

・発射サイトというものは、ひとたび完成してしまえば完全な偽装を施すこともできるが、建設工事のあいだにははっきりそれとわかる兆候がかならず見えてしまった。

・アフリカにおける人種間・部族間の戦争にしても、その規模が限定されているのは、現地人の思慮深さのためというよりは、貧困と、そのために殺傷力の高い武器がたくさんは買えないためなのである。

・相互確証破壊をなしとげる能力が、時とともに確証的である度合いを高めてゆくにつれて、ふたつの超大国はふたりのゴリアテのように、その兵器の威力そのものによって行動が制約されてしまう危険に陥った。想像を絶するほどの力を、想像を絶するほどの無力に変換させてしまう、魔法の杖のようなこういう状況は、歴史上それまでに例がなかった。

・流れ作業生産の技術は、外からの撹乱に対して極度に脆弱であった。工場の効率化によって生産コストを引き下げるためには、全体の流れの支流や分流をなす無数の生産要素の流れが精密に相互調整されなくてはならなかった。妨害により、ライン上のどの一箇所であれ流れがせき止められれば、極度の効率性はたちまち一転して極度の非効率に変わるであろう。

・理知と計算はほんの脇役にすぎず、主役はさまざまな理想とさまざまな感情であった。

・大衆のあいだに政府に従おうという感情的な雰囲気を醸成することができるのは、大衆が父祖から受け継いで広く共有している信条の許容範囲においてのみであった。

・国内の民間人社会に深刻な内部対立がひろがっている場合には、軍隊は意識的に民間人社会から孤立をはかり軍隊内部に引きこもらねばならない。

・このようなエリートこそは、無能で腐敗した政府に対してしびれをきらし、自分たちならもっとうまく国を動かせると考えがちな民間人の最右翼なのであった。

・公秩序の維持に問題が生じて、政府が外敵と同程度か、あるいは外敵以上に自国民を警戒しているときには、警察の装備が優先的に充実される。

・装備が以前より高価になりまた殺傷能力も高まっているので、19世紀と20世紀前半にヨーロッパの軍事を支配した、徴募兵からなる大規模軍隊は、小規模な職業的兵士の軍隊にとってかわられる公算が高い。

・エスカレートしていく軍備競争は国内で、政府に対する国民の従順な姿勢と服従の習慣を維持する助けになった。なぜならいつでもそうだが、明白な外部からの脅威こそは、個人という煉瓦で社会という建物を建てるための、人間の知る限り最も強力なセメントだったからである。

・敵から遠距離をへだてての軍事行動が圧倒的に多くなって、そこでは人間の筋肉的な力どころか、状況判断力や決断力さえも作戦に投入されることはほとんどない。そのことは戦争のアートの根本的な変容であって、軍人の心理は容易にはこれについていけないのである。

・武力衝突があとを絶つことはないだろう。人間が互いに憎み、愛し、恐れ、寄り集まって集団を形成し、その集団の団結と生存能力が他の集団との敵対のかたちで表現され、同時にそのような敵対によって維持されるものであるかぎり、戦争がなくなることはない。

・過去の研究は有用である。なぜならば、不確かな未来に向かって生きていくことがいか恐ろしかろうとも、とどのつまりその未来は過去と同様、人間が作るものだからである。



戦争の世界史―技術と軍隊と社会

戦争の世界史―技術と軍隊と社会

  • 作者: ウィリアム・H. マクニール
  • 出版社/メーカー: 刀水書房
  • 発売日: 2002/04
  • メディア: 単行本



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