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『考えない練習』 [☆☆]

・脳という情報処理装置は、自分の大好きな刺激を得るためなら私たちが苦しんでもお構いなく考え続ける、ヤクザな物体なのです。

・目で見え、耳に聞こえる情報に対して「もっとほしい、もっとほしい」と求める心の衝動エネルギーのことを「欲」と呼びます。

・入ってくる情報に対して「受け入れたくない、見たくない、聞きたくない」と反発する心の衝動エネルギーのことを「怒り」と呼びます。

・多くの方が年を取るにつれ「最近は年月が早くすぎてゆきますからねえ」という話をするようになる元凶は、現実の五感の情報を、過去から後生大事に蓄積してきた思考のノイズによってかき消してしまうことに他なりません。そしてノイズのほうが現実感覚に完全勝利した時、人は呆けるのだと思われます。過去のデータのみに完全に支配され、新しい現実がまったく認識できなくなるため、自分の孫を見ても、自分の子供と思い込んでしまい、それを修正できなくなったりするのです。

・無駄なエネルギーを使わない思考、その時に最も適切な必要最低限のことだけを考えて、どうすれば無駄な思考や空回りする思考を排除できるか、さらには、どうすれば煩悩を克服できるかが、仏道のスタートであり、ゴールでもあるのです。

・「聞こえている」を「聞く」に変え、「見えている」を「見る」に変えるように五感を研ぎ澄ます練習をしていきますと、一見つまらないものにも充実を感じてきます。現実がつまらないからといって、脳をバリバリと刺激するような娯楽に逃避しなくても、いつもの日常を繊細な味わいをもって楽しめるようになるのです。

・私たちは自由に考え、自由に話をしているつもりでも、そこにあるのは「刺激によるインプット」と、「思考が自動的に反応するアウトプット」だけなのです。

・話し方の基礎は、自分の声音の観察から。

・こちらの思い通りに相手が許してくれないと。イラッとしたり、許せないなんて心の狭い人だと怒ったりするのです。そうして腹を立てて初めてわかるのは、実はもともと謝る気などそれほどなかったということです。

・仏道の見地からは、相手にとって有意義でないものは無駄話であると考えて良いでしょう。

・自らの欲に駆られて、他人に無駄話を垂れ流すようなことはせず、口を慎んでいれば、誠に気品のある、美しい立ち居ふるまいにつながっていきます。

・仏道本来の瞑想法は、瞑想の集中力を道具にして自分の心の動きを見つめるお稽古です。たとえば何かの音がしていて「音→何の音だろう→○○の音だ→うるさいなあ」というように思考が連鎖しても、それにとらわれずに、音そのものをありのままに聞くべく集中して思考の流れを止めることによって、「音→…→…」という心の反射反応をストップする練習をしています。「音→…」で止める。

・初めて聞いた時は、意見を押しつけられたことで反発を覚えても、何度も何度も繰り返し聞いているうち、何となく自分が自発的にそう考えたかのように錯覚してしまうのです。「誰かに押しつけられた言葉」から「自分の言葉」になっていきます。

・なるべく普段から「音を立てないで動作する練習」をしておきましょう。扉を開ける時、物を置く時、道具を使う時など、音を立てないように心がけるクセをつけますと、動作も丁寧になり、見た目にも美しく映えます。

・どんな情報も微細に観察してみれば、常に変化しています。世の中の一切の作られたものは猛烈な勢いで変化し続けていて永久不変なものはない、これが「諸行無常」です。

・コミュニケーションにおける、ありとあらゆるすれ違いは、相手が自分を犠牲にして快楽を得ているのではないかという妄想に基づいています。

・どのような時でも役に立つのは、相手を突き動かしているのは、苦しみ=ストレスなのではないか、という洞察です。

・好ましい音に舞い上がり、好ましくない音に落ち込み、つまらない音を無視しようとする、それが人の心の根深い反応パターンです。

・古い言葉で「怒る」は「胃刈る」と当てます。怒ることで胃を刈るようなダメージを与えるということです。

・人から聞いた考えを自分が思いついたかのように思い込むといった「無知」を育てる傾向が強まります。

・自分の身体の動きすべてが常に人に見られていて、相手に微妙な影響を与えている、ということに自覚的であることが、まず心構えとして重要なことでしょう。

・最初にドキドキ不安を感じながら苦労して書いた「苦」が10ポイントなら、人に見てもらえた時に10ポイントの苦が消えた分、10ポイントの快楽を錯覚します。すると心は無意識裡に「「苦」を感じたおかげで快楽を味わえたのだから、不安や苦労の「苦」は良いものだ。もっと苦しめばもっと快楽が味わえるなら、もっと苦しもう」と洗脳されてしまうのです。したがって、誰も望まないのに、自分から進んで苦=ストレスを増やしてしまうのです。

・無慚とは、恥じを感じなくなっていき、良くないことを平気でしてしまえるようになる心の働きのことです。

・「快楽」というものは実在するものではなく、基本的には「苦」が減った時に錯覚するもの、苦がなくなったことを脳が楽と錯覚するだけのこと。これが仏道の「一切皆苦」という真理です。一度、楽の味をしめると、「もっと、もっと」と、より大きな楽がほしくなって、その材料になる苦をさらに求めてしまうのです。

・なるべく相手の自我を刺激しないというのが、人間関係におけるたしなみです。

・もともと人は、ものを持っているからには、自覚的もしくは無自覚に、「それを失いたくない」という衝動を持っています。ですから、あえて「捨てる」ということが心の訓練法として有効なのではないかと感じています。

・他人に優しくしたいなんて気持ちは、ほんのちょっぴりしかないかもしれません。ただ、この「ほんのちょっぴり」も、やらなければ成長しません。偽善も、用量を守れば効果はあるのです。

・安いから買うということは、安くなかったらいらないもの。

・刺激を自我に与えるための嗜好品や贅沢品にお金をつぎ込んで、自分が生きていくための食費を削ったり、仕事の必需品を安い粗悪なものにするのは本末転倒です。

・「安いから買う」でも「ほしいから買う」でもなく、「必要なものだから高くても買う」「本当に必要なものを少なく買う」という姿勢を貫いていれば、欲にまみれず、良い心持ちで生活し続けることができるのです。

・たとえば暑い夏。「暑い」という感覚が脳を刺激し、不快を感じます。そして冷房をつけます。この一連の流れは、普段、特に深く考えもせずに行われていることでしょう。しかし長期的に見ますと、少しでも自分の意に沿わないことがあると、それを強引に直そうとする心のクセがつくことになります。そうしたことを繰り返すことによって、少々のことにも我慢できない人間になっていくのです。つまり、長い目で見ますと、心がわがままになっていきます。

・身体に支障をきたすほどの暑さや寒さでない限り、それにいちいち右往左往しない心構えが必要です。

・その方はそれまでにも無言のSOSを出していたのでしょう。けれど、その時点では誰も気づかず、ケアもしなかったのに、弱音を吐いた途端に寄ってきた。それはある意味、ハイエナのようなものと申せましょう。弱っている人、かわいそうな人を、自分が立ち直らせてあげるというのは、とても気持ちの良い、美味しいエサに感じられることなのです。

・人のことを心配しすぎるのも、本当の思いやりとはかけ離れています。人は過剰に心配されると、人を心配させていることに対して心が負担を感じます。

・身体感覚を身体運動に変換する形で脳が発達したと考えるとしっくりくるんです。これが進化の過程で、入力を出力に変化するかどうかの判断基準として、最初に脳に宿った価値観が、苦痛や不快感だと思われるんです。

・生命を永らえる時には快楽を追うのではなくて、危険なものから逃げるというのが、自然淘汰のプロセスではより有用だったと思うんです。嫌なものから逃げるとか、嫌なものに耐えるためのシステムがたぶん最初に完成した。

・「嫌悪感」というのは、おそらく苦味が元になっているのではないか。古い進化の過程で、生物は苦味を感知するための効率的なシステムを確立していて、後に嫌悪感につながった。

・その音があるからイラつくのではなくて、イラついているから、その音がうるさく感じられるんです。



考えない練習

考えない練習

  • 作者: 小池 龍之介
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/02/09
  • メディア: 単行本



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