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『人生が深まるクラシック音楽入門』 [☆☆]

・音楽は、電気やガスのような生活必需品ではありません。でも、なくても困らないとしても、人生に無駄なものでは決してない。

・「難しい」「簡単」はたんなる慣れの問題。

・すでに21世紀に入って10年以上たつのに、20世紀初頭、明治時代につくられた音楽を「現代音楽」と呼ぶのもおかしな話ですね。

・17世紀にガリレオを迫害し、地動説を禁じたのがカトリックです。ローマ教皇庁が正式に天動説を放棄したのは20世紀終盤の1992年、ヨハネ・パウロ2世のもとでのことです。

・プロテスタントのオランダが早い時期に海を制することができたのは、地動説に基づいて正確な海図をつくることができたからです。

・大航海時代そのものはポルトガルやスペインといったカトリック国が先駆けとなって切り開かれましたが、彼らは「地動説禁止」という足枷があったために天体観測の技術がいまひとつ発達せず、羅針盤が不正確なために度々座礁や遭難を繰り返して、徐々に力を失っていきました。

・思想家として名高いルソーですが、彼は<<むすんでひらいて>>のタイトルで知られる有名なメロディをつくった作曲家でもありました。

・当時、星の数ほども存在したであろう、大先生の下で優等生がつくったような作品は、今日ほとんど残っていません。

・コンサートホールでは、空調の音や隣の人の咳、衣擦れの音など、本当は耳に入っているはずなのに、意識されない音があります。ケージはこれらの音を沈黙と呼んで無視すべきでない、沈黙は音楽の絶対零度である、と言いました。そこで絶対零度を示す摂氏マイナス273度を秒単位に直して4分33秒(=273秒)としたのです。

・世界には「人に聴かせない楽器」が、いろいろ存在します。たとえば、朝鮮半島には玄琴(コムンゴ)という民族楽器があります。これは洗濯板のように薄い木板に絹糸を張った簡素な楽器で、いくら弾いても決して大きな音はしません。この楽器は、儒学者が精神修養のため「自分一人で弾いて聴くための楽器」です。人に聴かせることを前提につくられていないので、ほんの小さな音しかしません。

・チェロやコントラバスなど低音弦楽器の胴体の端にはエンドピンという針がついています。演奏するときにはこれを床に突き立てます。エンドピンには、床下から舞台全体に重低音を響かせるという、重要な役割があります。

・21世紀に入ってどんなに技術が進歩しても、電話も携帯電話もステレオにはなりません。「会話するだけなら片耳だけで十分だから」と思ったら、それは大きな誤解です。実はステレオで音を聴くと、言葉の意味が理解しにくくなります。これは「両耳マスキング」と呼ばれる、聴覚の脳科学ではよく知られた事実です。

・コンクールというのは、新人を売り出すための宣伝の道具です。芸術の新人賞とは全般にそういうものです。

・無理にライナーノートを読む必要はありません。音楽はあくまでも「聴く」ものであって、文字で「読む」ものではない。

・メロディを声に出して歌うということは、実は、プロの音楽家にとっても、洋の東西を問わず、普遍的に大切なトレーニングなのです。

・楽器だけを指先だけで弾き散らす癖をつけてしまうと、音楽家は伸び悩んでしまう。

・これはいかんなぁと思う学生には、「ちょっと、いまのところ、声に出して歌ってごらん」とレッスンしていました。そうすると、だいたいが、しどろもどろになって歌えない。

・自分の内側に確かな音楽がなくても、ピアノの鍵盤を押すだけなら、とりあえず音は出るので誤魔化せてしまいます。でも、歌は誤魔化せません。

・自分で歌うことができなければ、音楽に魂がこもらない。固有の歌がなければ、たとえ楽器は鳴っていても、ただの「音出し」にしかなりません。

・聴力をほとんど失ってしまったけれど、ベートーヴェンは最後まで、自分自身の声は聴くことができた。

・聴力はどうしても加齢とともに低下していきます。でも、耳が遠くなっても、自分自身の歌声は、最後まで心に響き続けます。

・お母さんのおなかのなかでは、「羊水反射」といって外界の音はほとんど跳ね返されてしまって、赤ちゃんの耳には届きません。ただ一つだけ、お母さん自身の声は、骨導音として赤ちゃんの耳に届くことがわかっています。



人生が深まるクラシック音楽入門 (幻冬舎新書 い 16-1)

人生が深まるクラシック音楽入門 (幻冬舎新書 い 16-1)

  • 作者: 伊東 乾
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/07/28
  • メディア: 新書



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