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『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』 [☆☆]

・日本では継続的な慈善活動が定着しにくいと言われるが、「祭り」としてのチャリティーはむしろ好まれる。「タイガーマスク運動」の場合は、年末年始という「チャリティー祭り」にふさわしいタイミングと、マスコミ報道によるフレームアップも相まって、二重に「祭り」化していたようにもみえる。

・実名での寄付はリスクが高い(世間体やバッシング)。匿名の寄付は結果がわからないのでやりがいに乏しい。キャラになりきっての寄付行為は、実名と匿名のちょうど中間の選択として、まことに格好のアイディアだったのだ。キャラは必ずしも「匿名」ではない。少なくともメディアや噂の中では「あれは自分だ」という同一性が保たれる。

・いまやコミュニケーション以外の才能は、ほとんど顧みられることはない。かつての子供社会においてはそれなりに意味のあった「勉強ができる」「絵がうまい」「文才がある」といった才能は、対人評価軸としてはもはや意味をなさなくなってしまった。

・現代において、貧困や障害以上に不幸なことは「コミュ力がないこと」だ。言い換えるなら、個人の不幸のありようは多様であっても、不幸の原因はしばしばコミュニケーションの問題へと輻輳させられてしまうのである。

・学問としての観相学や骨相学は、もはや完全に過去のものだ。にもかかわらず、僕たちは今なお観相学の時代を生きている。つまり「人は見た目が九割」の時代を。

・不定形の図形にすら、「眼」が書き込まれただけで、僕たちはそこに「顔」をみてしまう。同じように僕たちは、その画面に「顔(キャラクター)」が描かれていればそこに「性格(キャラクター)」や「感情」を読まずにはいられない。さらに「顔+感情」(時には「セリフ」)が描かれていれば、ほとんど自動的に「物語」を読み込んでしまう。

・マンガは僕たちに、もっとも高い効率で情報を「読み込ませる」ために発達してきた表現メディアなのだ。

・ライトノベルとは「アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する小説」である。

・語呂、語感というのは小説だけが持ちうる面白さ、武器であると考えています。視覚感ではマンガ、臨場感では映画、一体感ではゲームに、小説はどうしても一歩譲るところがあります。

・日本社会は「ハイ・コンテクスト」、ということになる。「ハイ・コンテクスト」社会においては、文化的なコードが暗黙のうちに共有されている度合いが高いため、そのぶんやりとりされる「情報量」が節約される。あ・うんの呼吸、というやつである。これに対して米国のような多民族国家では、共有されている文化的コードが少ないため、コミュニケーションにさいしては、明瞭にコード化された情報を大量に伝達しあわなければ、意思の疎通が図れないとされる。

・日本映画がダメなのは日本社会がハイ・コンテクストで内輪受けの作品ばかりつくるためだ。

・アメリカ社会ではロー・コンテクストであるがゆえに、万人に理解可能な普遍的表現としてハリウッド文法を発達させてきた。

・侘びや寂びがそうであるように、萌えもまた定義が難しい。

・はっきり見えてくるのは、おたくにおける強い「虚構志向」と、これとは対照的なマニアの強い「実体志向」である。

・マニアにおいては、愛好の対象が切手であれ本であれ、「オリジナル」や「現物」が圧倒的に尊重される。切手の画像だけ収集して喜ぶ切手マニアはいないし、昆虫のフィギュアだけを集めても、昆虫マニアからは相手にされない。

・たとえその断片の元ネタがなんであるか推定できたとしても、その元ネタがさらなる引用の束だったりすることもある以上、作家へのリスペクトよりは、公共財の気軽な活用、というニュアンスが濃厚になる。

・ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかった「かも知れない」ことこそが悲劇なのだ。



キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero)

キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero)

  • 作者: 斎藤 環
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/03/24
  • メディア: 単行本



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