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『遺伝子の不都合な真実』 [☆☆]

・まわりは文化と教育と社会の研究者だらけ、つまり心が文化や教育の影響を受けていかに大きく変容するか、社会の不条理にあえぐ人間を環境の変革によっていかに救えるかに関心を寄せる人たちばかりです。

・知能の遺伝規定性ある以上、単に環境を平等にしただけではかえって遺伝的な差異が顕在化する。

・遺伝的な差異などないと言い張る人たちがいまだに後を絶たず、遺伝を考慮に入れず環境を平等化するだけで問題の解決を図ることが正しいという主張の方が、世の中に受け入れられやすくなる。

・東西冷戦盛んなころ、社会主義者たちは社会構造の変革によって格差を是正し、平等な社会を築き上げようという高い理想に燃えていました。彼らにとって、遺伝的な個人差の存在を科学的に示されることは、その理想への推進にブレーキがかかることになると考え、過剰なまでの反論を試みたのは想像に難くありません。

・善意と正義の名のもとに、私たちはそれに好都合な、えてしてわかりやすい話を疑いもなく信じてしまい、また信じさせられてしまう。

・都合のいい解釈がされている可能性があるとかいった「疑わしさ」をほのめかして、その議論全体に怪しい印象を与えようとする書き方には、逆にいかがわしさが感じられました。

・行動にあまねく遺伝子の影響がある以上、そしてその遺伝子の組み合わせが人によって異なる以上、いくら学校でみんなが同じことを同じ時間かけて学んでも、そこには成績の出来不出来、能力の得意不得意があるのは当然なはずです。

・「セロトニン・トランスポータの遺伝子の型がssのタイプだから、私の性格は神経質」と知らされて、もし何か意味深い洞察が得られ、悩みや問題が解決するのなら利用すればいいでしょう。そういう「科学的なおみくじ」程度のご利益とわかってするならよいと思われます。

・対立する政治的立場の間で徹底的に論点を洗い出して白黒決着をつけるような議論をする文化と、どちらの立場も否定しない多義的な言葉を選んで円満な解決に至る言論を構築しようとする文化では、政策決定のプロセスも異なります。

・たとえば子供自身がもともと遺伝的に落ち着きがなさすぎたりすると、親にとっては子育てがしにくく、結果的に親から拒絶されたり乱暴に扱われたりして、さらに問題が大きくなる。

・哲学者ムーアは「事実命題から価値命題を引き出してはいけない」といいました。この約束事を破ることを自然主義的誤謬といいます。

・哲学者ヒュームは「「である」(事実)から「すべし」(当為)へ移行することはできない」といいました。この約束事をヒュームのギロチンといいます。

・人種間に知能の遺伝的差異があると発言することは、今やタブー視されており、認知能力に人種間の遺伝的差異はないことを前提にもの考えようとする科学者や識者たちが圧倒的に多いのが現状です。しかしこれは、価値命題から事実命題を、「すべし」から「である」を導き出していることになり、やはり科学的態度とは言えないのです。

・セロトニン・トランスポータの遺伝子多型のl型とs型の占める割合の違いが、その国がどの程度「個人主義的」な文化か「集団主義的」な文化かとかなり強く関連する。s型の占める割合が70~80%は、集団主義的傾向が最も高いのに対して、s型が40%程度の国々では個人主義的傾向が一番高いところに位置しており、s型が50~60%の国々では両者の中間に位置しています。

・集団主義的傾向が高い国ほどうつ病の出現率や不安傾向が高いことに着目しており、文化と遺伝子が引き起こす精神疾患との間に共進化があったと考えています。つまり遺伝的に不安定傾向が高いのを緩和するために集団主義的な文化が形成されたかもしれないということです。

・「もし知能に遺伝的人種差があることがわかると差別に結びつくから、遺伝的差異はないことにしなければならない」と主張する人は、「実際に遺伝的差異があったら、自分はそれを理由に差別する」という優生的態度に潜在的にとどまっているからです。

・互恵的利他性はヒトにおいてもっとも顕著にあらわれ、もはや一個体だけでは生き延びることができず、自分がいかに利己的であろうとしても、行動上は利他的にふるまわなければ生き延びることができない動物になってしまいました。

・チンパンジーは子供が目の前で自分と同じことを真似しようとしているにもかかわらず、大人は子供に一切それを「教える」ということをしません。ただひたすら自分のことに夢中で、なんの働きかけもしないのです。彼らには「教育」がないのです。

・親から子への模倣による知識伝達を、「教えない教育」「背中で教える教育」ということがありますが、厳密に言えばこれは教育ではありません。つまりすでにあることができる個体が、それを「教える」ための特別な行動を、できない個体の学習のためにわざわざしてやり、それによって学ぶというやりとり、いわゆる教示行動がないのです。

・教育制度、学校制度は、膨大に蓄積された文化的知識を人間が大人になるまでに学習するためにつくり上げられた驚くべき発明だとおもいます。しかし現状のままでは、主として一般知能の遺伝的個人差を顕在化させ、さまざまな不平等を生み出す強力な装置としても機能してしまっているのです。

・テストの点数をとりあえずとるために、意味もわからず公式や年号をごろ合せで覚えるような「ごまかし勉強」でお茶をにごし、テストが終わったらきれいさっぱり忘れてしまう学習をしたりさせたりして、それでよしとする生徒や先生もいます。

・もともとは学習のための手段にすぎない「試験」が本末転倒して自己目的化し儀式化され、そのために学校教育が本来できる多様な学習機能が歪曲されているのは、誰もが問題として痛感していることでしょう。



遺伝子の不都合な真実: すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実: すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

  • 作者: 安藤 寿康
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/07/04
  • メディア: 新書



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