SSブログ

『決断の条件』 [☆☆]

・日本人の権力は奴隷頭のものにすぎぬ、奴隷頭は本当の主体性も自己の意志も持てないのだから決断できないのは当然ということにもなる。

・日本人は近代までは中国の辺境、近代からはヨーロッパの辺境として、辺境のまま、数千年を送らなければならなかった。

・どうも私たちは、被支配民的性格を持ちつづけねばならぬ宿命を持つ民族、人から支配されてブツブツいっていることに快感を感じる奴隷根性の国民、何をやっても責任を感ぜず、というより感じることができず相手が悪いとしか思えぬ民族なのかも知れない。

・政治に関心を持たず、持つときは保護だけを求める。

・だが民衆は起とうとはしなかった。なぜか。一揆軍が軍事的訓練も統一意思も欠如した単なる烏合の衆にすぎぬことを見てとったからだ。これでは何もできないということをかれらは瞬間的に見ぬいたのだ。

・せめて敗れたとき、自分は正しかったの、誰もが味方をしなかったからだ、という理由はつけないでいただきたい。能力がないから誰も味方をしなかったので、味方しなかったから負けたというのは原因結果をとりちがえているにすぎないのだから。

・社会で何かをなそうとすることは、一種の謀反をおこすことでもある。会社のため、会社の基本方針にそってやることでも、それが創意や新工夫のものであるかぎりはそうなる。

・同僚の群れから離れ自分「だけ」が一番早く「よい子」になりたいからである。このよい子になりたがる競争が事を紛糾させる。

・人は、父親を殺されたうらみはすぐ忘れるものだが、財産をとられたうらみは生涯忘れない。

・このごろの若者は立身出世を求めない、無欲で立派だ、などとかつての自分の尺度だけで物を考え、したり顔で論じていると自分は時代におくれ孤立して結局失敗してしまう。

・人は利益により動かないという意見である。こういう意見は戦後とりわけ強調されて来たのだが、その主張者は女性だとか、学者だとか、現実社会と直接結合していない人々を殆んどとするということに注意されたい。

・古代ギリシアのサラミス海戦、中世のレパント沖海戦、近代のトラファルガーの海戦とともに、この日本海海戦は世界史上の四大海戦とされるが、この四海戦でも郡を抜いた勝ち方だ。

・日露戦争における日本海軍の基本戦法の一つは、敵旗艦に全力を集中し、指揮者を倒して敵陣を混乱させるというのがある。それこそ日本古来の海賊戦法だったのだ。

・新聞記者や評論家が見込み違いをやるのは、現実を直視せず、対象に自分の理想像を投影したからだ。

・長所を伸ばせば短所も大きくなる。短所を矯めれば長所が減る。

・篤農型人間は生産それ自体に対してはまじめだが、わがままで社会人としては落第である。

・理想に向かって努力するのはよいことだし、しなければならないことだが、それが実現するはずだと思い込んだり、完全社会がこの地上のどこかにあると信じたり、完全具足の人を現存人に求めたりすることは、当人にとっても、社会にとっても百害あって一利なしだ。

・立身出世主義は悪で、手をつなぎあってともに戦うなどと、実は足のひっぱり合いを美化し正義化する思考を普及化するなど。出る杭はうたれるとの言葉がこれほど実感される国はまあ世界でも他にあるまい。

・職人気質というのは篤農家の精神と同じだ。欠点をいえば自閉的で、我侭で、一面利己的である。

・左派も右派も識者というものは自分たちの派、つまり群れの先頭に立って導こうとはしない。群れの動向をうかがい、それについて後方から煽っているだけのことである。

・日本人は国においても弱者だし、個人としても自分自身で戦うのではなく、どちら側につくかという決断と意志決定をすることが切実な運命の分岐点になるような人間が多い。

・中国の指導者たちにとっては、そのイデオロギーのいかんにかかわらず、古今を通じ、この『六韜三略』というのは、『孫子』などとならんで常に手を離さぬ座右の銘であり書である。

・相手国の賢臣・忠臣と腹を割って事を談じてはならないという教訓にもなる。そんな人間が自国に不利で、こちらに有利なことをしてくれるはずがないからだ。そんな人と腹を割って何もかも話し合い、事を処理したと思っている場合は、大抵相手の術中に陥ったので、自分が自国に対する「裏入り者」となっているのである。

・私たち日本人の一番の欠陥は、相手の人間性にほれこんだり、参ってしまうという所にある。エライ人が胸襟を開いてくれたり、真情を吐露したり、へりくだって対応してくれたりすると、いっぺんに感激してしまう。

・年齢は確実に加えられて行く。老いるとは絶対の孤独を目指して生きて行くことなのだ。家庭でも会社でも、疎外を生甲斐にせよ。三十、四十の男が小娘のように、家庭でも俺は孤独だと淋しがるなど醜態以外の何物でもない。

・男というものは飢え、マルセイユの波止場に全くの一人でほうり出される。そんな時でも身につけているたった一着の背広を狙って男があとからつけてくる。そういった、ギリギリの状態に追いこまれてこそ人間は、はじめてこの世というものを理解することができるのだ。こういうとき「理性」とか「善」は無力である。かれはひとり起ち上がって戦うか、さもなければ死ぬだけなのだ。

・戦争請負人(傭兵隊長)どうしの戦いが常道だった。部下の一人を殺すことも、武器一つを失うことも、大切な商売道具を失うことだ。全滅させたりしたら無一文になってしまう。

・公害摘発が、実は無能な研究者の一番手軽で確実な研究業績作りの手段で、自分の地位保全に役立ったというようなことも案外多いのである。

・一般的な、テレビの団地ママ向け番組の立脚からすれば、冷酷無残か、あるいはふらち極まる人間であってこそ、はじめて意志決定が可能になるのだ。愛情に満ちた意志決定などありはしない。それは結局流されただけである。

・息子をも信じてはならない。息子が危険だというより、臣下がその信頼を利用するからである。

・私たち日本人に完全に欠如しているのは、教育とは子供を、家庭をはじめ被保護者を収容する共同体圏から追放する準備を加えていくことだという認識である。つまり日本人のいう孤独に耐える人間とすべく、しだいにそういうものからつき放して行くという訓練だという認識である。

・孤独人であるからこそ、人間関係が生まれる。幼児には人間関係は存在しない。あるのは人情関係だけである。

・新聞というのは、いわゆる高級紙にしたところで小学生程度の道徳観で武装した、いわゆる団地ママ、投書夫人的心情を以って販売政策としている。

・判官びいきというのは正義感が強いということでは決してない。劣等意識、あるいは正義漢なるが故に俺は損をしている、だから損をしている奴に同情せざるを得ないのだといった、いじましい自己正当化の感覚が強くまじっているのである。

・日本人は甘えを基本とした精神構造を持つといわれる。それはその通りだ。つまり、相手は自分に対して好意を持つはずと頭からきめてかかって、交渉したり何かをたのんだりするのである。好意を持っていないとわかると相手を人非人よばわりする。

・物質的にであれ、精神的重荷であれ、労働であれ、かなり先の時点まで自分が負担を負いつづけるという覚悟なしに一切の決断をしてはならない。そうでない決断など決断にならない。




決断の条件 (1975年) (新潮選書)

決断の条件 (1975年) (新潮選書)

  • 作者: 会田 雄次
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1975
  • メディア: -



タグ:会田雄次
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

トラックバック 0