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『「当事者」の時代』 [☆☆]

・毎日新聞は「給料が他社と比べて圧倒的に低い」と哀れみの目でみられていたが、しかしそれでも30代後半で年収800万円近くはあった。この金額を聞いて「安月給」と笑う人は他の業界にはあまりいないだろう。

・特ダネ競争に呑み込まれる最大の理由はもっと卑近なものだ。ひとことで言えば、新聞社の中での会社員人生がかかっているからこそ、みな必死で頑張るのである。

・「なあ、おまえの記者としての目標ってどんなこと?」 その若手の返答を聞いて、私は居酒屋の椅子から転がり落ちそうになった。彼はこう言ったのだ。「少しでも長くこの社会部にいることです」

・あまり公になっていないけれども、新聞業界での精神的な病気の発症率はかなり高い。「誰それが自殺した」という話もひんぱんにある。

・会社や宗教団体や労働組合のように、一定の目的を持った人たちが集まる組織を「アソシエーション」という。

・何かを語るときに、明瞭な口に出された言葉のやりとりだけで成り立つのがローコンテキスト。これに対して、口に出している言葉の背景にあるコンテキストまで考慮に入れないと、コミュニケーションが成り立たないのがハイコンテキストだ。

・新聞記者は、普通のサラリーマンじゃないことを主張したがり、遊ぶことも大好きだ。比較的豪華な生活ぶりを誇示したがる。そのくせアウトサイダーを気取り、自分たちは社会のはぐれものだと思いたがる。

・どこか広場のような場所に全員が集い、そこで相互にコミュニケーションを交わすところから共同体は発生するのである。つまりは「広場」が必ず必要であるということになる。

・コミュニティは特定の地域に人が集まって生活している共同生活で、アソシエーションはコミュニティを基盤として、その上に一人ひとりの関心にしたがって形づくられる結社のような集団である。

・情報もフレンドからフィード(配信)されてくるだけで、どこかの場所に情報が集められているわけではない。だから参加者自身がそれを共同体であると認識しにくい。外部からも、内部の参加者からも、可視化されていない共同体となっている。

・権力の源泉は、他者をコントロールする力である。つまり自分の意思に沿って人々を行動させるような力を持っている者が、「権力を持つ」という言葉と同義なのである。

・「安定していたけど息苦しく、波乱はないけど退屈」というのが戦後日本社会のサラリーマンの生活感覚だったのだ。そういう時代においては、ニュースが「時代を生き抜いていくための処方箋」にはなりようがない。どんなことが起きようが、首相が替わろうが、人生は安泰。

・警察や検察、政府、自治体などの「当局」に確認を取っていない記事は、そうたやすくは新聞には掲載できない。なぜなら「誤報だ」「捏造だ」「取材がひどい」といったクレームが当事者から飛んできたときに、新聞社だけで全責任を負わなければならないからだ。

・毎日、食事をして労働にいそしみ、家族で愛し合い、ときには諍い、子供を育て、娯楽を楽しむ。そういう生活がちゃんと毎日続いていくことだけを願っている存在が大衆である。

・1960年代後半には大学生はもはやエリートではなくなり、「大衆」となってしまっていた。「末は博士か大臣か」と言われながら大学に入ってみると、自分に将来用意されているポストは博士や大臣ではなく、単なるサラリーマンだったという現実に直面させられることになる。

・市民運動は新聞社にとっては使いやすいツールでしかないということなのだ。客観的中立報道の立ち位置から外れられない自分たちの代わりに、反権力的な意見を代弁してくれる。

・金太郎アメ化した市民運動は市民のマジョリティでさえない。市民運動といいながら、圧倒的多数の中で孤立したマイノリティでしかない。

・市民運動家が対等な目線で、時には上から目線で記者を見下ろしてくる。これは記者にとっては、不愉快以外の何ものでもない。

・<市民>は金太郎アメ的なマイノリティであって、必ずしもマジョリティの<庶民>と感覚が一致するとは限らない。むしろ一致しないケースの方が多いのが実態だ。それはたとえば、憲法改正について多くの<市民>が反対しているにもかかわらず、新聞の世論調査などでは憲法改正容認派がかなりの多数に上る。

・たいていの人間は、自分の問題を具体的に語る一方で、社会の問題については空理空論でたやすく批判してしまう。

・学生たちはしょせんは当時の昭和元禄社会の中では少数派に過ぎず、そして豊かな社会を作り上げた担い手でもなかった。

・しょせん日本人がベトナム戦争反対を叫んでも、それは空虚で抽象的な反対にすぎないということなのだ。おまけにそうやって反対を叫んでおきながら、日本は高度成長を成し遂げ、空前の好景気の中で平和を謳歌している。そういう空気の中に半分染まっている学生たち。ベトナム戦争反対と叫んだところで結局はお坊っちゃんお嬢さんたちのお遊びにすぎないのだ。

・たいていの人は、一方的な加害者でもなければ一方的な被害者でもない。さまざまなものごとや事象において、私たちは加害者と被害者の間にいて、ときには知らず知らずのうちに加害者になり、ときには重いもよらない被害者になり、そうやって揺れ動きながら生きている。

・「自らを語ることのできないマイノリティ」という存在は、人類学の用語で「サバルタン」と呼ばれる。サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指す言葉だった。

・サバルタンの歴史は、常に自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいるのだ。

・サバルタンの側から見ても、他者に勝手に憑依され、勝手に語られることによって、自分たちと「語られるサバルタン」は乖離していってしまう。

・本当は単なるひとりの人間なのに、狐憑きによって自分は狐になったと思い込んでいるようなものだ。狐憑きは決して狐には同化できないのである。

・ベトナム人や黒人とともに銃弾の下をかいくぐった本多は、「殺される側」を代表し、銃弾の下をかいくぐらないすべてのふつうの日本人に対して無限の優位に立って、説教することができた。

・神社は神社の建物そのものが神々しいのではなく、その中心に神がやってくる空白の何もない空間がつくられていることが神々しいのだ。

・神社の中心は、何もない空っぽの空間である。だからといって私たち日本人はその空っぽを勝手に神様だと勘違いしてお参りしているのではなく、その空っぽの空間に神が舞い降りてくるのを信じて、だからこそ神社の前で手を合わせてお祈りをするのである。

・日本の神々は、いろんな場所をふわふわと浮遊している。そして人間が身を清めて一心に祈ると、目の前に用意されている「空白」の場所へと舞い降りてきてくれるのだ。

・もし建物をそのまま何百年、何千年と残してしまうと、その建物自体が神性を帯びてしまう。しかし建物は神ではない。神は空白そのものなのだ、だとすれば建物自体に神性が付着してしまうのは間違いだ。だからその絶対性を剥ぎ取り、「空白」の絶対性を常に確認していくための手段として、式年遷宮という手法がとられている。

・ミンストレルというのは、実は特定の芸能を表す一般名詞である。具体的にいえば、顔を黒塗りにした白人が、ステージの上で歌や踊りやコントを披露するというショーの総称だったのである。

・テレビの前に座る人は、みな平等だ。所得が多少多くても、少なくても、お茶の間に座ってテレビを観れば、皆が同じ番組コンテンツを消費して楽しむことができる。このメディア空間を共有している認識が、総中流意識のひとつの大きな基盤になっていたのだ。

・マスメディアの記者も、フリーのジャーナリストも、皆「今の社会のゆがみを伝えてくれる弱者」を探し回った。

・矛盾を指摘するためには、矛盾を拡大して見せなければならない。だからこそ<マイノリティ憑依>し、それによって矛盾を大幅にフレームアップしてしまうことによって、記事の正当性を高めてしまおうとしているのだ。

・<マイノリティ憑依>とエンターテインメントが織りなすメディア空間は、決して読者に「あなたはどうするんですか」という刃を突きつけない。

・マルクス主義に取って代わるような「皆が幸せになれるかもしれない」という幻想を支える政治思想など、もはや存在しない。いま語られているさまざまな政治思想――リバタリアニズムやコミュニタリアニズム、リベラリズムなど――はずっとリアルで身も蓋もなく、すべての人が幸せになれるというような幻想は提供していないのだ。

・被災者という当事者が紡ぐ物語。傍観者である記者が紡ぐ物語。それらの物語は圧倒的な津波の被災地を前にして、決して重ならないのだ。その位相の食い違いは、エンターテインメントとして記事を受け取る読者にはほとんど気づかれない。その差異に気づくのは、本当の当事者だけだ。

・当事者であるということは常に苦痛を伴う。軽々しく引きうけるようなレベルではない。

・それまで出回っていたマスメディア論の多くが、「日本の新聞は言語が劣化している」「新聞記者の質が落ちている」といった情緒論ばかりだった。




「当事者」の時代 (光文社新書)

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