『「心の傷」は言ったもん勝ち』 [☆☆]
・うつ病などはずいぶん裾野が広がり、いまでは「心の風邪」と呼ばれるほどに、ごく一般的な病気になりました。
・昔なら精神医学が登場する必要もなかったものが、人々の耐性が低くなったために、いろいろな病名が必要になってきた。
・「ちょっとくらいの気温の変化で倒れたりしないように、普段から身体を鍛えましょう」と言うことは可能でしょう。それと同じように、「ちょっとくらいのストレスや不安に負けないように、普段から精神力を鍛えましょう」と言うことは可能でしょう。
・境界線上の人が、首尾よく傷病手当金意見書を一年半交付してもらって傷病手当金を受給し、さらにその後障害年金の診断書を書いてもらって、しかもそれが首尾よく認められれば、場合によっては一生、仕事をしなくても暮らしていけることになります。
・セクハラにおいて女性が置かれているとされる立場には特徴があります。「嫌であっても断れない、弱い人間」として女性を位置づけていることです。これが一種の差別なのはおわかりでしょう。
・断りはしなかったが実は嫌だったとか、断りたかったが断れなかったといった、後出しジャンケンのような言い訳がしばしば登場します。弱さを武器に相手を糾弾します。
・パワハラ、アルハラ、アカハラ。これらすべて、女性を原型とする、か弱き、責任無能力の存在を他の領域に拡張したものにすぎません。だから、パワハラなどの概念を作ってその概念をひろげるのは、人を「女性化」することにほかなりません。
・「相手がいじめと感じたらそれはいじめなんだよ」などと言われます。一見すると、いじめられる弱い人を最大限に救うような、ありがたい言葉のように見えます。しかし、ひとたび思いがけず「加害者」の立場に置かれた人に対しては、この構造はその恐ろしさを遺憾なく発揮します。
・生徒と一緒になって、それどころか生徒にへつらって、ろくに事情を吟味もせずに謝罪しているのです。
・アメリカでは、精神療法やカウンセリングが大流行だと言われています。病気でもない大人がわざわざ大金を払って、愚痴を他人にこぼす。日本では会社帰りに飲み屋で一杯、で済んでいたことがビジネスとなっているのです。
・自己決定するということは、それに伴う危険性も、その結果引き起こされる結果も、すべて自分が引き受けるということでしょう。その覚悟がなければ、自己決定などと言ってみても、意味をなしません。
・お任せ医療における以上にお任せの姿勢でいながら、治療法は自分で選ぶと言い、あげくの果て、結果については相手のせいだと主張する。
・自分で決めるというのは、自分の責任において決めるということでしょう。その責任には、必要なことがらを自分で医師に質問する責任や、もっと詳しく知りたいのなら自分で図書館やインターネットを通じて調べる責任というものも、含まれるのではないでしょうか。「はい」とか「いいえ」と返事しておきながら、結果が悪ければ「知らされていなかった」と文句を言えるなら、自己決定権という大げさな言葉が泣こうというものです。
・とても実践できないようなきれいごとを言われても、医師はほんとうの意味で反省できないし、司法への信頼をなくしてしまうだけ。
・医療裁判において、被害者にきわめて有利な判決が出される背景には、世論の、または裁判官の、被害者に対する同情があることは疑いありません。医師・病院=強者、患者・被害者=弱者というイメージが、後者に有利に働いています。
・遺書をのこして自殺でもすれば、それこそ同情が集まり、「傷つけた」とされる相手はとんでもない悪者として扱われる、ということが往々にしてあります。
・社民党の福島瑞穂党首(弁護士)は、「痴漢事件には必ず加害者が存在するのであるから、冤罪者が出る危険もあるが、女性の人権擁護を第一義的に考え、そのリスクは社会的コストとして受け入れるべき」と主張したというのですが、とんでもない暴論です。これ以上人権意識に欠けた発言があるでしょうか。人権に女性も男性もありません。
・「心の病」というブラックボックスを利用して、うまく休職を「勝ち取る」ような人が出てくることを許すわけにはいかないのです。
・自己憐憫は、自己内で完結しません。他者に向かって表現され、慰めを求めます。典型的な場合、他者を悪者にすることによって安定を図ろうとします。
・公民権運動によってさまざまな権利を与えられたにもかかわらず黒人の地位は決して高まらず、むしろ悪くなっているのはなぜかと問い、その答えとして、黒人自身が、集団的な被害者というアイデンティティーの中に自らを閉じ込め、そしてそのことが政治的権利の主張のための根拠と、「被害者としての権力」という名の権力を与えることになっているからだと論じています。
・集団的に被害者であり続けるかぎり、個人としての責任を問われることなく、白人に問題の責任を押し付けることができる。
・医療とは本来、不確実なものであり、必然的にリスクを含むものです。しかし最近では、「何も問題がなくて当たり前」という安心・安全神話や、単純な二分法的思考が幅をきかせ、現実というものが持つ「あいまいさ」を許容せず、またはあえて見ないようにする傾向が見受けられます。
・彼らのなかには、負けると決まって、「今日は頭が痛いから本来の調子が出なかった」「スティックが安物だったせいで、思うようにあたらなかった」などと訴える人が多くいます。私は口に出しては言いませんが、「そんなことを言っている間は、リハビリはまだまだだな。仕事につくとか、社会に出るとかはだいぶ先だな」と思います。
・過去の出来事というのは、引きずるとトラウマになり、忘れれば、現在の生活に影響を及ぼさなくなる、というところがあります。
・「再チャレンジ」という言葉も、危険な言葉です。最初から再チャレンジをあてにしているような人は、多分一生チャンスをものにすることはできないでしょう。
・昔なら精神医学が登場する必要もなかったものが、人々の耐性が低くなったために、いろいろな病名が必要になってきた。
・「ちょっとくらいの気温の変化で倒れたりしないように、普段から身体を鍛えましょう」と言うことは可能でしょう。それと同じように、「ちょっとくらいのストレスや不安に負けないように、普段から精神力を鍛えましょう」と言うことは可能でしょう。
・境界線上の人が、首尾よく傷病手当金意見書を一年半交付してもらって傷病手当金を受給し、さらにその後障害年金の診断書を書いてもらって、しかもそれが首尾よく認められれば、場合によっては一生、仕事をしなくても暮らしていけることになります。
・セクハラにおいて女性が置かれているとされる立場には特徴があります。「嫌であっても断れない、弱い人間」として女性を位置づけていることです。これが一種の差別なのはおわかりでしょう。
・断りはしなかったが実は嫌だったとか、断りたかったが断れなかったといった、後出しジャンケンのような言い訳がしばしば登場します。弱さを武器に相手を糾弾します。
・パワハラ、アルハラ、アカハラ。これらすべて、女性を原型とする、か弱き、責任無能力の存在を他の領域に拡張したものにすぎません。だから、パワハラなどの概念を作ってその概念をひろげるのは、人を「女性化」することにほかなりません。
・「相手がいじめと感じたらそれはいじめなんだよ」などと言われます。一見すると、いじめられる弱い人を最大限に救うような、ありがたい言葉のように見えます。しかし、ひとたび思いがけず「加害者」の立場に置かれた人に対しては、この構造はその恐ろしさを遺憾なく発揮します。
・生徒と一緒になって、それどころか生徒にへつらって、ろくに事情を吟味もせずに謝罪しているのです。
・アメリカでは、精神療法やカウンセリングが大流行だと言われています。病気でもない大人がわざわざ大金を払って、愚痴を他人にこぼす。日本では会社帰りに飲み屋で一杯、で済んでいたことがビジネスとなっているのです。
・自己決定するということは、それに伴う危険性も、その結果引き起こされる結果も、すべて自分が引き受けるということでしょう。その覚悟がなければ、自己決定などと言ってみても、意味をなしません。
・お任せ医療における以上にお任せの姿勢でいながら、治療法は自分で選ぶと言い、あげくの果て、結果については相手のせいだと主張する。
・自分で決めるというのは、自分の責任において決めるということでしょう。その責任には、必要なことがらを自分で医師に質問する責任や、もっと詳しく知りたいのなら自分で図書館やインターネットを通じて調べる責任というものも、含まれるのではないでしょうか。「はい」とか「いいえ」と返事しておきながら、結果が悪ければ「知らされていなかった」と文句を言えるなら、自己決定権という大げさな言葉が泣こうというものです。
・とても実践できないようなきれいごとを言われても、医師はほんとうの意味で反省できないし、司法への信頼をなくしてしまうだけ。
・医療裁判において、被害者にきわめて有利な判決が出される背景には、世論の、または裁判官の、被害者に対する同情があることは疑いありません。医師・病院=強者、患者・被害者=弱者というイメージが、後者に有利に働いています。
・遺書をのこして自殺でもすれば、それこそ同情が集まり、「傷つけた」とされる相手はとんでもない悪者として扱われる、ということが往々にしてあります。
・社民党の福島瑞穂党首(弁護士)は、「痴漢事件には必ず加害者が存在するのであるから、冤罪者が出る危険もあるが、女性の人権擁護を第一義的に考え、そのリスクは社会的コストとして受け入れるべき」と主張したというのですが、とんでもない暴論です。これ以上人権意識に欠けた発言があるでしょうか。人権に女性も男性もありません。
・「心の病」というブラックボックスを利用して、うまく休職を「勝ち取る」ような人が出てくることを許すわけにはいかないのです。
・自己憐憫は、自己内で完結しません。他者に向かって表現され、慰めを求めます。典型的な場合、他者を悪者にすることによって安定を図ろうとします。
・公民権運動によってさまざまな権利を与えられたにもかかわらず黒人の地位は決して高まらず、むしろ悪くなっているのはなぜかと問い、その答えとして、黒人自身が、集団的な被害者というアイデンティティーの中に自らを閉じ込め、そしてそのことが政治的権利の主張のための根拠と、「被害者としての権力」という名の権力を与えることになっているからだと論じています。
・集団的に被害者であり続けるかぎり、個人としての責任を問われることなく、白人に問題の責任を押し付けることができる。
・医療とは本来、不確実なものであり、必然的にリスクを含むものです。しかし最近では、「何も問題がなくて当たり前」という安心・安全神話や、単純な二分法的思考が幅をきかせ、現実というものが持つ「あいまいさ」を許容せず、またはあえて見ないようにする傾向が見受けられます。
・彼らのなかには、負けると決まって、「今日は頭が痛いから本来の調子が出なかった」「スティックが安物だったせいで、思うようにあたらなかった」などと訴える人が多くいます。私は口に出しては言いませんが、「そんなことを言っている間は、リハビリはまだまだだな。仕事につくとか、社会に出るとかはだいぶ先だな」と思います。
・過去の出来事というのは、引きずるとトラウマになり、忘れれば、現在の生活に影響を及ぼさなくなる、というところがあります。
・「再チャレンジ」という言葉も、危険な言葉です。最初から再チャレンジをあてにしているような人は、多分一生チャンスをものにすることはできないでしょう。
「心の傷」は言ったもん勝ち(新潮新書) (新潮新書 270)
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/05/31
- メディア: Kindle版
タグ:中嶋聡