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『人間、この非人間的なもの』 [☆☆]

・「お前は、それでも日本人か」といった人々は、日本精神、日本文化、日本人の魂といった言葉を乱発しましたが、いったいそれらの人たちが何をしてきたかというと、日本を破壊してきたのでした。

・ニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトー。ニヒルはニヒリズムという語を生んだ「なにもない」という意味です。フマニはヒューマニズムという言葉を生んだ「人間に関する」を意味する語です。ア・メは「私にとって」で、アリエヌムは「関心をひく」とでも訳せましょうか。プトーは、「思う」ということです。つまり「人間的なことで、私の関心をひかぬものは、なにもないと思う」というのです。

・人間の悪を非人間的と呼んで、人間から切り離し、自分を人間的と呼んで、それとは無縁なものとみなしてはならない。

・死者に対する礼節とよばれる人間的なものは、それが死者中心的でありすぎて、生きた人間をかえりみないものだということに気がつかれてもよいように思うのです。

・ヒナがかえるまで、すべては正常にすぎました。ところが、ひながかえるやいなや、つんぼの七面鳥は、かえった自分のヒナを、すぐさま、自分のくちばしで、つぎつぎと突き殺してしまったのです。自分のヒナを保護し、そしてそれをおそう敵に猛然とたたかいをいどむ七面鳥の母性愛とは、次の二つのしくみの組み合わせにすぎないのでした。つまり、自分の周囲に、何か動くものを見たら、何でもそれに突きかかれという衝動が一つです。そして、もう一つは、ヒナの鳴き声が聞こえたら、その衝動に自動的にブレーキがかかるというしくみなのでした。

・船ののろさに価値が生まれるのです。同じお金で、よりながい間、退職後生活者の退屈した日々から脱出されてくれる、そこが買われるのです。

・新婚旅行者たちも、結局は、交通の手段としてでなく、二人だけの時間をくれる船ののろさを買ったのでしょう。

・天皇のお見舞いに感激している老人の病人たちの姿は、この人たちが、ほかならぬ目の前に立つ人が、宣戦の詔勅にサインすることではじまった戦争の結果おとされた原爆のために、今、ここにいるのだということを、忘れているように見えました。忘れたのではなく、はじめから、その視点は欠けていたのでしょう。

・あることが、前兆の意味を与えられるのは、そのあとで起こった事件によってです。

・まだ何も起こらないうちに、あることがらが人々になにかの前兆のように見えはじめるというのは、見るものの心の中に、予感として、すでにある事件が感じとられているということを意味します。

・もし、日本の社会で、まだ一を聞いて十を知る聡明さが、尊重され続けているのならば、それは日本の社会が、まだ縦割りの構造をのこしており、そこで上のものの意図をはやく知ることが聡明とされている証拠でしょう。

・自分の知らぬ、第三者と第三者との間の争いを傍観することができなくなり、どちらかの立場へと立たせるもの、それがケシカラン感情であり、その時の自分の行動を正当化するものとして、社会正義が必要とされるのです。もし「それがどうした」とつぶやいていたら、そこには社会正義は生まれないでしょう。

・法は、報復を形式化し、個人的な報復行為を公的なもので代行させることでなりたったのです。

・そこにあるのは、自我の肥大です。自我が、その核の密度とかたさを失い、ブヨブヨと肥大しながら大きくなっていくのです。

・高度経済成長の時代で、他の企業は急激な成長を示しているのに、たとえば町内の大工の棟梁が、××建設の社長になるのに、開業の先生はいつまでも横丁の先生でとどまることで、比較的貧困化の印象さえ感じとられるのです。そして、それが、医者に危機感を感じさせていたと考えてもよいでしょう。

・あるがままに、事物をできるだけ価値から解きはなして見る。それができないから、事実は価値により、ゆがめられてしまったのでした。

・そもそも、日本では死者は、まだあまりにも力を持ちすぎています。しばしば、一人の死者のおかげで、生きている人間が、その死者の支配を受けねばなりません。生き続けることの価値が、死ぬことよりも軽視されることなんて、おかしなことではありませんか。

・いちばんつまらぬ死は、病院での死です。なにももらえぬどころか、長くかかればかかっただけ、それだけ逆に支払いが多くなるだけなのですから。

・人々は病死よりも、事故死をこのましいものとすら考えるにいたったのかもしれません。

・死んだ人間に対して示す敬意は生きのこったものの負い目のうらがえしであり、黙とうという形式は、この死者に対する畏敬に支えられているのです。

・神は死んだとニーチェはいったが、神は死んでも宗教は死んでいない。

・毎年この日が来るたびに平和宣言をするだけでは、世界を動かすことはできません。それでも同じ式を続けることは、運動としての無力さを世界に示し、それが単なる死者の霊へ向けられた気休めにしかすぎぬことを明白にするだけです。

・事故原因の追究は、次の事故をふせぐためで、死者への義理だてとしてやるものではない。

・保守派がセレモニイによる政治を意図するのは当然だと思います。セレモニイは、繰返され、つまり形式が保守されることで成立するものですから。

・きれいごととは何でしょう。秩序の枠の外に出ないことです。

・戦争を知らぬ世代の人間は、ナチの悪事について聞いても、私たちの日常の生活の何が、ナチとつながるのかを、教えられることはなかったにちがいありません。

・しかし、彼女の死が、事情をいっぺんさせました。スキャンダラスな興味から彼女を追いまわしていたジャーナリズムが、今度は彼女を死に追いこんだものに、批判を向けはじめたのです。

・法律を変えるのではなく、その法律ゆえに不幸とならざるを得ない人間に同情して、涙を流すだけのことなのでした。

・マスコミは、ニュースを餌として、飼われている巨大な動物という一面があります。どのような場合にも、ニュースという餌をなげられれば、その餌にとびつかねばならないのが、商業ジャーナリズムの悲しい性なのです。

・新聞記者の単純な瞬間的な正義感が、あからさまに顔をだしています。

・相撲協会や相撲社会ほど閉鎖的なものはありません。ところが、その閉鎖社会が、千秋楽の度ごとに歌うのは「君が代」です。彼らは、自分たちが閉鎖的であることを自覚すればするほど、「君が代」によって、他の日本の部分と結びつこうと思うのでしょう。

・閉鎖性の強い集団が存在すれば、はげしい利益の対立の中で、個人も集団とともに孤立するばかりです。そして、この孤立からぬけだすために、日の丸にたよることになるのです。あるいは国益などという言葉を持ちだすのです。





人間、この非人間的なもの (1972年)

人間、この非人間的なもの (1972年)

  • 作者: なだ いなだ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1972
  • メディア: -



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