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『虚数の情緒 中学生からの全方位独学法』 [☆☆]

・昨今の我が国の状況は、正規の学習課程を経て来たとは、とても思えない様な青少年が街を闊歩している。

・幾ら知識を増やした所で、百科事典を何十冊も内蔵し、原価僅か数十円のCD-ROMに勝てる筈がない。今や「生き字引」とは、自らはその中に唯の一行をも書き加えるものを持たない人間の蔑称であろう。

・一つの言葉の意味を知り、それを正しく使おうと努力する所に、ごく自然に教養と呼ばれる何物かが生まれてくる。

・言葉遣いの粗雑な人物は、その人格も同様に粗雑であり、何事に於いても大飛躍の出来ない、哀しい状態に陥ってしまうのである。

・3の平方根の値は「1.732…」と覚えているが、ではそれが無理数である事を証明しなさい、と言われて出来る学生がさて何割居るだろうか。彼らの多くは「自分自身で知らないもの」を巧みに操り、更に恐ろしい事に「無知の自覚」が無いのである。これらは「定義」よりも「定理・公式」を優先させてきた報いと云えるだろう。

・一般の日本人がものを理性的、論理的に考え、且それを適切な方法で他に知らしめる「技術」に劣るのは確かであろう。

・この現象をパブロフは「条件反射」と名付けた。一切考える事をせず、刺激さえ与えれば常に同じことを口走る人間をこう揶揄する。

・ファッション関係の雑誌が相当部数売れているそうだが、これもセンスを磨くというよりは、人と同じ服装をする為のマニュアルとして使われているに過ぎないようである。

・衣食に限らず思想までも「流行」としてしか捉えず、絶えずそれに追随し、他人になりすまして安心を得ようというのか。

・そもそも学問は、所詮独学でしか身につかないものである。人に教えて貰おう、という甘えを棄てる心構えこそ、教員が学生に最も教えたいものなのだ。

・小学校はおろか幼稚園ですら、そこは生存競争の修羅場以外の何物でもない「戦場」である。そこには大人顔負けの邪気が充ちている。優越感、劣等感、虚栄心、嫉妬、激しい自己顕示、嘘、謀略、おもねり等々、書き出したら切りがない。

・子供は生存の為の必要性から極めて利己的な存在である、と同時に、一刻も早く自分を支配している利己心を克服して一人前の「大人」に成る日を夢見ている。

・「昨日まで飴玉が好きだったから、今日も飴玉をやれば喜ぶだろう」といった大人の態度を見透かして、強烈に反抗するのである。「あれほど可愛がってやったのに」「欲しい物はすべて与えたのに」などと言う親の言葉ほど彼らにとって侮蔑的なものはないのである。

・最も「遊び」を嫌っているのは子供自身であって、大人よりも、より切実に本物に憧れているのである。

・勉強の中に遊びを入れてはいけない。子供に媚びた「愉しさ」は彼らの向学心に水を差すだけである。

・子供は、「子供扱い」される事を嫌悪し、出来る限り背伸びをする。

・子供は、自分を子供扱いする大人に反抗し、その逆に従順である。

・自らを弱者として権利のみを主張したり、強者と勘違いして善意の押し売りをする厭な人間になってしまうのである。

・香は「聞く」と表現する。「嗅ぐ」は不粋である。

・短い人生で、「反・何々」と称していて、愉しい筈がない。プロ野球ファンで「アンチ・ジャイアンツ」などと称して、巨人軍が負けると喜ぶ、という屈折した人が居るが、如何なる理由をつけようと、「反・巨人」よりは「親・横浜」の方が愉しいに決まっている。「広島・命」の方が意義深いだろう。

・「クリミアの天使」と呼ばれた英国人「フローレンス・ナイチンゲール」は統計学を研究する「数学者」であり、その成果を実際の看護に用いて、英国陸軍病院の死亡率を僅か半年で、40%から、2%にまで激減させた極めて優秀な「応用科学者」でもあったのである。

・科学的な話題や、数学の問題などがニュースに登場すると、決まって「私達素人には全く理解できません」などとお茶を濁しながら、言葉とは裏腹な皮肉な笑みを浮かべている。少なくとも、「私達」ではなく「私は」として貰いたいが、彼らが理解できない事で悲嘆に暮れているのか、というと寧ろその反対であるから尚更始末に悪いのである。

・貧弱な知性で、政治を語り、経済を論じ、社会問題に眉を顰めて見せても、何の説得力も無い。

・そもそも、日本人が自らの姓名を反転させて得意げなのも、諸外国から見れば、全く珍妙な光景なのである。実際、隣国の韓国にしろ、決して姓名を裏返して媚を売っていない。

・現在の我が国の目指している「情報化」とは、単なる近所の事情通に過ぎないのではないか。

・何を言っても聞いて貰えないのも辛いものだが、発言すべてを神の声の様にして、丸飲みにされるのは尚怖い。迂闊にモノが言えなくなる。

・「経験」と「参加」は全く違う。主体的に取り組まないものが「参加」なのである。学校でどれほど試験を受けようと、それが積極的なものでなければ、決して「経験」にはならず、唯の参加で終わってしまうだろう。

・「不公平な優位(unfair advantage)」という言葉がある。人それぞれに、その人にだけ用意された特殊な環境があり、それを充分に意識せよ、活用せよ、という教えである。これは、特別に裕福な家や、特殊な才能を持って、生まれてくる事を指しているのではない。もし、隣に学者が住んでいたら質問に行け、もし、友達の父親が野球選手ならボールの投げ方を指導して貰え、もし、家にピアノがあればそれを練習せよ……。こうした、「運命」が諸君の為に特別に用意した環境を活用しないほど勿体無い話はない、という意味である。

・自分がそれまでに得た多くの経験的規則の中に共通しているものは何か、と探すのである。若し、それが分かれば、規則は整理され「法則(law)」に昇格する。法則は、「次の出来事」を確実に教えてくれる。

・幾ら経験を積んでも、自分の体験を一つの法則にまで高めておかなければ、本当の自信は生まれて来ないだろう。「次に何が起こるか」をよく知れば、絶対に崩れない自信が湧き上がってくる。

・最近は、コンピュータさえあれば、何でも出来ると思っているオメデタイ人が多いが、これほど自分の無知を曝け出す発言もないだろう。如何なる超高速のコンピュータを以ってしても出来ない、この宇宙が溶けて無くなるまで時間を掛けても出来ない計算が、そこら中に転がっているのである。

・a+bの二乗が求められたのだから、次は「三乗すればどうなるのか」と考えるのが、学習を効果的に行う為の定石である。この様に考えられるか、考えられないかで、その後の理解の度合いが定まる。

・現在の知識を基に、昔の人物や出来事を評価するほど愚かな事はない。

・三角形の面積は、「底辺×高さ÷2である」と誰もが言う。然し、この関係を単に上辺の上で知っているだけでなく、巧く実際の問題に当て嵌めて使える人は少ない。

・「特殊」と「一般」、この往復こそが数学の醍醐味である。面白い関係、奇妙な計算、不思議な図形、そうした具体例を見つける、これが特殊である。その「特殊な問題」が、他の条件では如何に変化するか、或いは、色々な条件の変化にも拘わらず、常に成り立つ性質があるのか、を調べていく、これが「一般」である。

・他の東南アジア諸国に比べて、我が国の平均的な英語会話能力が低いのは、維新時の翻訳書が功を奏して、あらゆる分野の専門書が「日本語で読める」という環境を殆ど一瞬にして作り上げたからである、と指摘する識者も居る。

・作業手続きの丸暗記は、知性の対局にあるものなのである。

・「正二十面体」に、0から9までの数字を、各2回書き記したものは、「乱数サイコロ(random die)」と呼ばれている。

・「偉大なるアリストテレスが間違う筈がない」として、何とガリレイが登場するまでの千年余り、「重い物は軽い物よりも先に落ちる」と西洋の全知識人が無条件に信じていたのである。

・我々は、半音、即ち「2の12乗根」を聴き分けられる――これが出来なければ、曲の違いが判らなくなる。そして、音楽を好む人は、「2の1200乗根」にすら敏感である。

・公式を中心に暗記の努力をひたすら続け、それで学んだ気になっていると、若し、それを忘れてしまえば、学んだ過去は一切消滅、何も学ばなかったのと同じ状態になってしまう。

・映像は、文章の何倍かの情報量を持っている。然し、我々が本当に欲しているのは、量ではなく質である。本物の刺激である。映像や音声による刺激は、単に見た目が派手なだけで、想像力の育成に役立つとはとても云えそうもない。

・小学校の教員は、特定の教科の専門家ではない。特に、理科系の大学を卒業して、小学校に奉職される方は比較的少ないので、文系学部を卒業した教員の比率が高くなってしまう。その結果、数学を殆ど勉強しなかった人達が、小学校という或る意味では一番難しい数学教育の最前線に放り出されてしまうのである。

・「私は120パーセント、それを信じる」だとか、「200パーセントの準備をした」だとか、極めて奇怪な表現が罷り通っている。基準値を設定する為に、折角1や100といった切りの好い数字を上限として、対象を表しているのに、そこへ範囲外の数値を持ち込み、何やら意味のない事を強調して一人悦に入っている様は、滑稽以上に哀れである。

・論理的には「理解」出来ても、感情的には「納得」出来ない、という場合がある。人は感情が満たされなければ、決してそれが「わかった」とは思わない。

・「わかる」とは、少なくともそれに関して二つ以上の説明の方法を持つ事。それが出来た時、はじめて私は「本当にわかった」と感じる。

・現代社会に於いては、時間的にも空間的にも逸早くわかること、即ち、「わかりやすい」ことが、相当の価値を持っている様であるが、それが単に「ヘリ」に同乗するだけの山登りを意味しているのであれば、「わかる」為には寧ろ最悪の方法である。

・新しい記号や考え方を導入すると、必要以上に心理的な負担を感じる諸君も居るようであるが、名前負けや、気合い負けは、闘わずして負ける、最も恥ずかしい行為である。高々数学の記号一つに怯えていては話にならない。

・何かを称えるのに、他を貶さなくてはならないような、極めて幼稚で一次元的な発想に縛られ、自分を売り込む為に、他人の悪口を平気で言うようになってしまった。

・飛行機の場合、訓練機と戦闘機では、見掛けの上で決定的な差がある。それは、訓練機は大抵の場合、高翼機――翼が胴体の上部に位置する――であって、翼は「上半角」を持っている。上半角とは、左右の翼を中央で「逆さにしたやじろべえ」の様に、角度を与えて接合したものである。それに対して、戦闘機は殆ど低翼機――胴体を貫通した形の中翼機もある――で、翼は平らである。

・揚力を発生する翼の下に、重量物である胴体をぶら下げた高翼機の方が安定がよい。

・無意味な事柄、著作、人とはアッサリと縁を切り、解らない理由は相手側にある、とする態度も時には必要である。

・最近、地震の体験談として、「初めに下から突き上げる様な揺れが来て、その後グラグラと本格的な横揺れが始まった」という台詞が、異口同音に使われているが、これはこうした知識に拘束され、観察眼が曇っているとは云えまいか。地震に於ける縦波とは、地殻内の圧力変化が疎密波の形で伝播していくもので、「縦波、即ち、上下動」ではない。

・古典とは、決して「単なる古いもの」を意味する言葉ではない。あらゆるものを貫いて、絶えず新しい発想の源泉となるもの、過去の一切を纏めながら、尚、将来の骨組を与えるもの、それが古典である。それは、決して用済みになる日の来ない、永遠の基本なのである。

・どちらの手法にも馴染めなかったファインマンは、遂に「学ぶ」ことを諦めた。「作る」ことにしたのである。

・超流動と超伝導、どちらもボソンが共存状態を好む「ボーズ凝縮」という性質から生じた、我々の目に見える規模の「巨視的な量子現象」なのである。

・対称性の破れは、擬粒子「フォノン(phonon)」の存在を意味する。これは、結晶内にのみ存在するNGボソンであり、結晶内の原子の位置の乱れが順に伝わっていく事を表している。コップを叩いて「音」がするのも、結晶内を伝わるフォノンが集積して、それが巨視的な存在にまで増幅されているからに他ならない。

・原子一個一個を幾ら「叩いても」そこに「音」は生じない。原子の集団が結晶構造という、全体的な構造を持って初めてフォノンが生じ、漸くそれを知覚し得るのである。

・「擬粒子」と呼ばれるのは、それが周りの環境により定められ、電子や光子の様に「単独では取り出せない」からである。



虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

  • 作者: 吉田 武
  • 出版社/メーカー: 東海大学出版会
  • 発売日: 2000/03
  • メディア: 単行本



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