『十七音の可能性』 [☆☆]
・俳句は、現れることのない脇以下を永遠に待ち続ける発句だと言ってもよいでしょう。
・言葉が少ない俳句の場合、描写は断片的な、ヒントのようなものでしかない。しかし、いいヒントを得たとき、人の想像力はフル稼働します。
・比喩は、見知らぬ事柄を、見知った事柄に置き換えて説明する技術です。したがって、比喩に用いる言葉は珍しくてはいけない。火や棒や埃のような、ありきたりの言葉が適しています。
・もっともらしく解説することは出来ます。しかし解説はしょせん、後出しじゃんけんです。
・読者が読者自身の想像力により、自分の頭で思い描き、自分の目で見たような気分になることが写生の理想です。極論すると、作者は読者にヒントを与えるだけなのです。
・芸としての俳句は、選者の眼力に依存します。いかにすぐれた作品であっても「違いがわかる」読者がいないとその良さが理解されません。
・俳句は、俳句以外の言葉に置き換えられるようなものであってはならない。
・俳句という形になった言葉で、見たり、思ったり、考えたりするということである。物に出会って、それを散文の形で思ったりしては、ダメなのである。
・俳句は、入り口はもちろん、暗闇の中の足跡も全部消されて、突然、ただで出口だけが在るものとして在ることになる。そしてこの出口は、ここで何かが終わるのではなく、ここから一つの時空が始まる入口でもある。作品の向こうに一つの世界が誘うように始まっていなければ、それは作品とは言えない。
・俳句は言葉そのもの、それも五七五の言葉の塊として現れるものであって、俳句以前に予定した何かを俳句で説明するものではない。
・匿名でも価値が変わらない俳句と、作者名があってはじめて価値を持つ俳句がある。
・言葉が少ない俳句の場合、描写は断片的な、ヒントのようなものでしかない。しかし、いいヒントを得たとき、人の想像力はフル稼働します。
・比喩は、見知らぬ事柄を、見知った事柄に置き換えて説明する技術です。したがって、比喩に用いる言葉は珍しくてはいけない。火や棒や埃のような、ありきたりの言葉が適しています。
・もっともらしく解説することは出来ます。しかし解説はしょせん、後出しじゃんけんです。
・読者が読者自身の想像力により、自分の頭で思い描き、自分の目で見たような気分になることが写生の理想です。極論すると、作者は読者にヒントを与えるだけなのです。
・芸としての俳句は、選者の眼力に依存します。いかにすぐれた作品であっても「違いがわかる」読者がいないとその良さが理解されません。
・俳句は、俳句以外の言葉に置き換えられるようなものであってはならない。
・俳句という形になった言葉で、見たり、思ったり、考えたりするということである。物に出会って、それを散文の形で思ったりしては、ダメなのである。
・俳句は、入り口はもちろん、暗闇の中の足跡も全部消されて、突然、ただで出口だけが在るものとして在ることになる。そしてこの出口は、ここで何かが終わるのではなく、ここから一つの時空が始まる入口でもある。作品の向こうに一つの世界が誘うように始まっていなければ、それは作品とは言えない。
・俳句は言葉そのもの、それも五七五の言葉の塊として現れるものであって、俳句以前に予定した何かを俳句で説明するものではない。
・匿名でも価値が変わらない俳句と、作者名があってはじめて価値を持つ俳句がある。
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