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『音楽を「考える」』 [☆☆☆]

・自分が傷つくことをやっていながら、「傷ついている」ことそのものを表現してしまったら面白くもなんともない。その「傷ついていく」プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。

・音楽とは空気の振動という自然現象を扱っている、ということなんです。

・われわれの世界はいろんな音に包まれていて、それを自分で聴き出すこと。それをずうっとやっていると、ごく自然に自分の内なるところで響いている音楽が聞こえてくるはず。それが作曲だ。

・「生涯で自分の石は一個しか選べないよ」と言われたら、みな真剣に見るよね。これはすべてに通じる態度だと思うな。

・結局は、自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいかなんです。何ができるかなんて言いはじめたら、何もできなくなっちゃう。

・とにかくひたすら10年間、がむしゃらにやってみなさい。それでももし結果が出なかったら、それ以上はもう時間の無駄だからやめなさい。

・百聞は一見しかず、という言葉も、一見よりも百聞の方が想像力を育むという意味かもしれない。

・現在、西洋音楽はグローバルなものとして広まっています。なぜここまで世界的な音楽として成功したかというと、要因の一つには、五線紙というものに機能的に記録する形式を獲得したことが大きく働いています。「楽譜を書く」という大原則が根本にあったために、数百年前の作品も残っているのです。

・空気という実体が振動して、自分の鼓膜を震わせ、聴覚神経から脳に伝わって「聞こえる」と感じるプロセスならわかります。ところが、「頭の中で音が鳴る」というのは、そうではない。空気という実体がないのに、現実の音とそっくりな音が頭の中で鳴り響く。

・現代の音楽が力を失っているのは、ある時代に確立されたものをそのままツールとして使って提示しているだけ、ということが原因にあるかもしれません。それはもう自分の内なる音楽をぜんぜん聴いていないということになりますから。

・お金が動かなければ仕事として成り立たないわけで、売れない作品を書いても、それはプロではない。

・たいていの人は小中学校の義務教育でしか古典音楽を聴かない。そういう人たちにとっての古典音楽は、お子様向けクラシックになってしまう。世の中にはそのような音楽しかないと思って一生を過ごしちゃうことになる。

・脳というものは恐ろしいことに、潜在的に「いいものかどうか」を理解できる力を持っていても、何かそういうものに出会わない限りは、その「美しさ」を自ら見出すことはできない。

・本物ではなく、まがい物でも何でも混ざってどんどん大衆化して普及していってしまう、というのが日本の文化の一つの形式だと思います。

・音楽を聴く時に、純粋に音楽を聴いているのではなくて、「この評論家がいいと言ったからいいんだ」みたいに、評を聞いている。

・いまとなれば古典として絶対的な意味を持っているように思える作品も、当時は批判と絶賛とが同時に存在するというダイナミズムがあって、それを経て認められたものが残っていく。日本の社会は談合体質で、そのダイナミズムがない。

・何かの組織に入ってしまうと、そこに属すること自体が一つの表現行為となって、自らを閉じ込めてしまう気がする。

・バブル以降、みんなでバカになろうという流れでやってきたわけです。テレビや新聞も自己規制して、「こんなに難しいことを書いたら視聴者や読者は理解できない」と、どんどんレベルを下げてきた。

・怪我をすると、体は自然治癒をして元に戻そうとしますね。それと同じように、創造性というのは、精神の危機に対するホメオスタシスの作用としての考えた方が、説明しやすいのではないかと思います。

・あまり世間と付き合い過ぎると、作るものの質が落ちる。かと言って、孤高を気取っていても仕方がない。



音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書)

音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 茂木 健一郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 新書



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