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『ゼロ年代の想像力』 [☆☆]

・社会的自己実現への信頼が大きく低下した結果、「~する」「~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である」「~ではない」こと(状態)を、アイデンティティとする考え方が支配的になる。ここでは自己実現の結果ではなく、自己像=キャラクターへの承認が求められる。

・問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。

・すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。

・『機動戦士ガンダム』的な架空歴史の年表──これらはすべて80年代から90年代にかけて大きな物語が失効し、歴史的なものが個人の生に生きる意味や正しい価値観を保障しなくなった世界でどう「物語」を確保していくか、という課題に、想像力の担い手たちが向き合った結果、洗練されていったものだ。

・異なる「発泡スチロールのシヴァ神」を信じる共同体は互いにその真正さを政治的な勝利で証明するために争うことになる。

・トーナメントバトル(車田正美、鳥山明)的な力比べから、カードゲーム(荒木飛呂彦)的な知恵比べに少年漫画バトルの主流が移行するにつれて、作品の世界観も頂点に立つ存在がすべてを支配する「ピラミッド型」から、能力の違いこそあれ、基本的には同格のプレイヤーが乱立する「バトルロワイヤル型」に変化していっているのだ。

・世界に「いい」も「悪い」もない。私たちに必要なのは、それぞれの時代とその想像力が孕む長所と短所、コストとベネフィットを見極め、巧く利用することで次ぎのものへと変えていくことなのだ。

・「権力・対・反権力」ではなく、「権力の謙虚でエレガントな使用・対・権力の傲慢で野蛮な使用」ではないか。

・「つながりの社会性」においては、コミュニケーションの意味内容やメッセージではなく、感情的な盛り上がりや、形式的な作法が重視される。具体的な例としては、携帯電話におけるメール交換で、それがどんなにつまらない他愛もないできごとの報告であったとしても「メールした事実」が親密さを計る指標とされたり、ソーシャルネットワーキング・システムにおいて、あるユーザーが自分の日記に湖面とがつくこと自体を「相手に気にかけてもらっているサイン」と解釈し、目的化する行為が挙げられる。

・「普通」とは「つまらない日常を諦めて受け入れること」ではない。むしろ「日常の中の豊かさをめいっぱい満喫すること」である。

・何が正しいか、は政治的に勝利した人間が決定する。

・彼がクラスの中心人物として、気持ちよく生活できるのには理由がある。それは彼が高校生にして「決断主義的動員ゲーム=バトルロワイヤルでは、自覚的なプレイヤーが設計者を兼ねる」という、現代におけるコミュニケーションの基本的な性格をほぼ正確に洞察しているからだ。

・雑多な文化圏の人間が住むひとつの街を特定の文化的トライブの住人にとって最適化することを「権利」と言ってはばからない下北沢の文化左翼たち。

・「何もかも誰かに(世の中に)与えられなければイヤだ」という考えはただの甘えではないのか。

・学園とはこの島宇宙化の時代に残された数少ない共通体験である。

・あなたがそのコミュニティで低位に置かれるのは、あなたが「そんな人間」だから、ではない。あなたがそのコミュニティの人間関係において、相対的に不利な位置=キャラクターを政治的に与えられているからだ。

・あなたが自身に抱く自己像は決して「ほんとうの自分」ではなく、願望にすぎない。そしてあなたがその共同体の中で与えられた位置は、その共同体=小さな物語の中でしか通用しない(物語に隷属する)キャラクターにすぎない。あなたに与えられたキャラクターは、あなた自身のコミュニケーションによって書き換え可能なのだ。

・ウェブ上ではさまざまなマイノリティ集団が被害者意識で接続されるコミュニティを形成し、現実世界のコミュニケーションを批判しているが、そこは往々にして現実社会以上の陰湿な「いじめ」の温床となっている。つまりコミュニケーションを忌避する人々が、より稚拙で暴力的なコミュニケーションを通じてそのキャラクターの承認を得ようとしているのだ。



ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

  • 作者: 宇野常寛
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/07/24
  • メディア: ハードカバー



タグ:宇野常寛
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